誤植を怒る人 vs 誤植を笑う人
何となく調べ物をしていたら、ウィキペディアの「誤植」の項目が意外と充実していて、つい読んでしまいました。
誤植、すなわち印刷による文字のミスは印刷された文章が思わぬ方向に変化する上、それが誰の意図でもないことから、往々にして独特なおかしさがあります。そういう意味では天然ボケに近い。笑えるものなら割と何でもいい私としては、面白い誤植も大好物です。
そのせいか、校正の仕事も割と好きでした。と言っても、出来上がった印刷物を読んで先輩に「こんな間違いありました」と報告するだけのお仕事です。誰かがうっかりやらかしたアホな誤植を怖い先輩に真剣な表情で見せ、先輩が鼻水を出しそうなほど失笑すると、私の手柄では全然ないにもかかわらず、内心「ウケた」と喜んでいました。間違った仕事の楽しみ方の典型です。
ウィキペディアの「誤植」の項目は、そんな私のような誤植好きによって並々ならぬ熱量で書かれているようで、往年のゲーム雑誌に掲載された有名な「ハンドルを右に」の誤植「インド人を右に」に至っては解説のための画像まで載っています。
貴重な時間を「インド人を右に」に費やすなんて、この世界はバカばかりで素晴らしい限りです。私もあやかりたい想いです。
さて、そんな誤植は少なくともグーテンベルクの活版印刷からずっと起きてきたようで、要は印刷の歴史は誤植の歴史とイコールなわけです。印刷だって人がやることですから、当然ながら誤植は出てくる。そりゃあもう、どれだけ注意深くやっても不思議と出てきてしまうものなんです。聖書のような多くの人にとって大切なものでさえ、誤植からは免れません。
以下、ウィキペディアから抜粋した文章です。
印刷屋のバーカーさんは本当に気の毒ですけれども、取っておいた人の気持ちがものすごく分かります。大切な聖書がこんな訳の分からないことになっているなんて、半笑いで裏の倉庫にしまっておきたくなるに決まっています。もし見つかっても「そういやあ、うちの曾祖父がこういうの好きだったんで……」と会ったこともない先祖のせいにして言い逃れすれば何とかなるでしょうし。
聖書は本来の厳格さがフリになってしまいがちなのか、知性ゼロの誤植が出るたびにみんなで密かにネタにされてるようなんです。再びウィキペディアからの抜粋です。
真面目な人がやらかした人らを真面目に罰する一方で、不真面目な人が半笑いでネタにし、貴重な歴史的資料と化すまで無事に隠し持ったりしている。そういう構図って昔から全然変わってないんですね。なんだか安心しました。
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