40年目の反省リスト(4)1987年
1987年は前年とうって変わり、年明け前後から動きがあった。
前年の暮れ、同人誌でお世話になっていたサンワ出版企画から、「星野仙一が中日の監督に就任したから、星野を主人公に描き下ろし本を出そう」との大胆なお誘い。星野氏の資料を送っていただき、全ページ分の4コマ原稿用紙まで作って頂き、この年のシーズンオフは延々4コマを描いていた。
で、ちょうどいい機会かと思い、絵柄をガラッと変えた。完全ないしいひさいち御大の亜流スタイル。当時4コマ界にいっぱいいたのである。
そしてシーズン開幕から少し遅れた頃、描き下ろし単行本「熱漢ホシノ!!」は刊行(ヘッダー写真)。あいにく書店の流通に乗れず、知る人ぞ知る処女著作となった。ちなみに漢字の苗字の「中村治彦」名義。
「熱漢ホシノ!!」で流れに勢いがついたのか、その後も大仕事が続く。
1月、東京中日スポーツの相撲面で、初場所15日間を4コマで連載するという大役。両国国技館の記者クラブの隅っこをお借りして連日描いていた。
3月、月刊OUT創刊10周年号で、付録の巨大すごろくを作成。翌月はOUT10周年を振り返る辞典の執筆も担当させてもらった。辞典は雑誌のライター仕事の中では一番の大仕事だったはず。
年の前半に漫画アクション(双葉社)の月例漫画賞奨励賞、後半にヤングジャンプ(集英社)の月例ギャグ新人賞奨励賞をいただいた。
ヤングジャンプでは、光栄にも3週の短期集中連載を経験させてもらい、増刊でも仕事をもらったりしたが、それ以上に驚いたのが、このころ予備原稿用に描いた6ページ4コマが、3年後の1990年に何の前触れもなく本誌に掲載されたことだった。
いろんなことがイッキに起きたこの年だったが、4コママンガ家としては、やはり1985年のまんがライフ以来となる4コマ雑誌連載を獲得できたことが、一番思い出深い出来事。
野球を中心にスポーツ4コマに特化した誌面が一部で話題だった、まんがスポーツ(芳文社)と、4コマ誌としては比較的毛色が変わっていたまんが笑アップ(壱番館)の2誌。芳文社は系列誌や増刊が多く、壱番館は廣済堂出版の子会社だったので関連書籍の仕事を多く回してもらえた。
他にも、前年まで同様、さくまあきら氏からの紹介で、明星ヘアカタログ(集英社)など新規のお仕事を回していただいていたが、なんとか親鳥からの巣離れだけは叶ったように思う。
ただ、ひとつ迷ったのが、節操なくあちこち食指を伸ばしすぎて、選択肢を絞り切れなくなっていたこと。
考えた結果、4コマ雑誌を主戦場にする決意を固めた。ヤンジャンも捨て難かったんだけどね。で、ペンネームを平仮名苗字の「なかむら治彦」に変更したのが、この年の11月であった。平仮名を使うペンネームの作家さんが大半だったのよ、当時の4コマ誌は。
次回第5回はちょっと間が空くと思いますが、とりあえず40年分は続けますのでご了承あれ。
(第4回・了)
※今回も有料ラインありません