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40年目の反省リスト(10)1993年

1993年は、このパノラマイラストから始まった。

東京中日スポーツの元日の紙面に、この大きなサイズでマンガを掲載してもらうという、めでたいスタート。Jリーグ元年のこの年は、マスコミではこうした「プロ野球vsJリーグ」の図式がことあるごとにテーマになった。
前年のクリスマス頃に描き上げてトーチュウに持参し、デスクの皆さんに大層喜んでいただけて、鼻歌まじりで帰途に着いた記憶が残ってる。

前年までに「やっとかめでGО!(全2巻)」など野球4コマ単行本を計4冊刊行できたことで、いわゆる「二次展開」的な仕事がちょいちょい入るようになった。
週刊ベースボールの版元、ベースボールマガジン社での「ベースボールアルバム」で1993・94年と仕事をさせてもらえたり、分不相応に放送局からお声がかかったり、元プロ野球選手が経営する飲食店の看板に自分の絵を使って頂いたりした。

元日本ハムの矢作公一氏が経営する鉄板焼き店
「ピンチヒッター」(現在は閉店)の紙マッチ

そして最大の「二次展開」は、翌1994年にやってくる。

一方雑誌連載の方は、順調だった前年から、少しずつ鳴動しだした。
連載する4コマ誌が休刊によりぼちぼち終了し始め、担当の編集者さんが各社で入れ替わり始めたのだ。

野球4コマの連載をしていたある雑誌では、野球に全く興味が無く、明らかに興味無さそうな顔で原稿に目を通す編集者さんに替わった。
この時私は、つい日和って、「別のジャンルの4コマ連載にしましょう」と提案してしまった。たしかに本音は、野球4コマ以外の連載がしたくてしょうがなかったってのもあるけど、これは正解だったんだろうか?
この雑誌も結局その1年ほど後に休刊したので、答えはわからない。

足元がなんとなくグラグラ落ち着かなくなって、「ちょっと次のステップを考えなきゃダメかな?」と感じだしたのが、この年の暮れ。
バブルは崩壊したとはいえ、まだ余熱のようなものはあったこの時期、出版業界がちょっとだけザワッとするトピックスがあった。
飛鳥新社のコミック夕刊紙「日刊アスカ」の創刊である。

創刊は1993年12月13日(日付は翌日)、首都圏のみ販売
タブロイドサイズで創刊号は堂々の40ページ

東京スポーツや日刊ゲンダイといった夕刊紙が元気だった当時、数年前に「磯野家の謎」の大ヒットで金庫が潤った飛鳥新社が、満を持して参入したコミック読み物中心の新聞。
大物作家による連載など、刊行前はそれなりに話題にはなったのだけど、当時駅売り新聞には絶対的存在だった鉄道弘済会が「実績が無いので扱うかどうかは様子見」となり、キオスク売りが見送り。しかも年末年始を挟むことで読者がつかず、金庫もたちまちカラ。売りのはずのコミックも途中からやめてしまう迷走の末、5ヵ月で休刊とあいなった。

なんでこんな話をしてるかとゆーと、じつは私、この執筆陣の中にいたのである。もちろんトーチュウのデスクには一言お断りを入れて。
創刊号から4コマを6本、1コマを1本描いたところで、年を越えてから注文が無くなり、気がついたら終わってた。じつに不思議な仕事であった。
せっかくなので、記念に1本公開。

連載の通しタイトルは「24時間太平楽」

今まで「日刊アスカ」の仕事の話を対外的にする機会は全然無かったので、この仕事にもやっと日の目を見させることができた。よかったよかった。
もっともまぁ、これから先のグラグラ生活を暗示させるような連載だったことはいなめないけど。
(第10回・了)
※今回は有料ゾーンありません

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