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40年目の反省リスト(14)1997年

マンガ誌での連載が「パロ野球ニュース」以外無くなった1997年、新規のマンガ連載が3本開始した。いずれも数回で終わることはなかったが、いずれもマンガ誌ではなかった。
ピポパル(学習研究社)
B.L.T.(東京ニュース通信社)
ぴあ中部版(ぴあ)

「ピポパル」はこの当時学研が発行していた、通信専門の小学校中学年(3・4年生)向け月刊教材誌。その中で、マンガと読者コーナーをジョイントさせたページを担当させてもらった。投稿はすべてFAXで、編集部から子供たちの一生懸命書いた投稿用紙の束が送られてくるのが毎月の楽しみだった。ただ、私の当時の荒れた精神状態から、諸々の手伝いをしてくれていた同業者氏にきつく当たることが少しずつ増え、途中から関係が悪くなってしまって、2年で終了。その後もずっと根に持たれていたことを、のちに知った。同業者氏には大変申し訳ないことをしたが、こういうのが後の祭りというやつで、その時に気付かなければ意味が無い。大いに反省。


「B.L.T.」は現在も発売中の月刊テレビ雑誌。今はすっかり誌面が変わったが、創刊当初は番組欄の見開き30数ページに1本ずつ、テレビネタなどの4コママンガが掲載されており、私もその中の一人だった。

創刊号表紙。モデルは広末涼子。
創刊号に描いた「どっちの料理ショー」ネタ。

この連載は、1997年10月号~2003年10月号の丸6年続いた。
当初はバラエティ番組とか好きな芸人さんとかをネタに描いていたが、気づかないうちに他誌でやってるようなカラいネタになってて、途中から編集部(当時お世話になっていた編集プロダクション)の指示で野球4コマのシバリが付いた。
今回6年分のスクラップを読み返して、自分でも少々蒼ざめた。今なら絶対描かない。

当時ジョビジョバが大好きだった。(1998年8月号)
こんなネタも挟み込んだり。(1999年4月号)

野球ネタをしばらく続けた後、後半の2年はなぜか「笑点」ネタ限定で描いている。たしかその前に執筆者の入れ替えとかがあって、守りに入ってカラいネタをやめたのか、それか編集部から全体へ向けて「わかりやすいネタを」的な指導が入り、「じゃー今後は『笑点』だけ描こう」と決めたか、どっちかだったと思う。

「笑点」ネタの初回。(2001年6月号)
「三村ツッコミ」が流行してた頃か。(2001年12月号)
当時楽太郎の六代目円楽師と伊集院光さんネタ。(2003年4月号)

ラストの2003年10月号は、私だけでなく誌面刷新で全員が終了。翌号から、アイドルやタレントの書き文字コーナーになっていた。
長らく立ち読みもしていないので現在どうなったかは知らないけど、今考えると、自分が好き勝手に描いてたあのスペースにもお金は発生していたわけで、テレビ雑誌の性格上、そりゃアイドルの方がニーズはあるわなぁ。


「ぴあ中部版」はまったく伝手が無かったが、1996年の後半だったか1997年の始めだったかに、私が東京から直接編集部へ営業に出向いたのが始まり。
その際、ちょうど誌面に中日ドラゴンズ情報ページの予定があるということで、毎号1本の4コマ連載が決まった。
月2回で翌1998年秋までの1年7ヵ月、計44回の連載。
タイトルは以前東京中日スポーツでやっていた連載「ドラ一発!」を流用。ただし内容はスポーツ紙とはだいぶ違う。愛知以外でご覧になった人はいないと思うので、ちょっと多めに掲載する。

「大岡裁き」って題材が野球4コマとしてどうなのか。
機影が太りすぎ。
ドラで唯一、キャラにクレームをつけてきたのがこの人だった。
このサブタイは嫌いではない。
今は外国人のセリフを片仮名で書かなくなった。

この連載の開始当時、唯一の連載マンガ誌「パロ野球ニュース」では、野球4コマではなく野球蘊蓄マンガを執筆していた。その反動でオチがなんとなく尖っている。つーか野球の外に向けた「違うこと」をやりたがっている。

一時期「野球4コマじゃない4コマ描きたい」と言っていた割には、なにかというと野球4コマを描く場に遭遇する。もはや腐れ縁的なものかもしれない。1995年の回で書いた理由で、かつてみたいに野球4コマが再び脚光を浴びることは無いというのに…いや、あるか?(それは後日また)とにかくどっちつかずの状況で迷っていた。
この迷いはまだまだ続き、その一方で、「ぴあ中部版」の連載とほぼ同じタイミングで「パロ野球ニュース」の方も終わり、翌1998年にはついにマンガ雑誌の連載が無くなる。
(第14回・了)
※今回も有料ゾーンありません。次回はなんか考えるかも。

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