40年目の反省リスト(21)2004年
この記事はマンガ家生活の回顧が目的なので、ライティング仕事については基本深く触れない。2003年頃から数年間は、かなり落語脚本の執筆に力を注いでいた時期だったが、冒頭でさらっと触れるに留める。まぁ、以前も書いた通り、仕事にはならなかったわけだが。いずれ「40年目の反省リスト・ライター編」を始める機会があれば、そちらで詳細を書く。
昨年の「まんがパロ野球ニュース号外」を最後に、マンガ誌で仕事をする機会は無くなった。
1998年に「パロ野球」本誌の連載終了後、資料を使う野球蘊蓄マンガの依頼があれば…と保管していたが、来ないと見切り、書棚3棹あった野球関連書籍や古雑誌をほぼ全部処分した。2003年の引っ越しで荷物を減らしたかったという理由もあったとはいえ、ネットがあれば個人が膨大な資料を抱える必要も無くなった、と考えたのも理由の一つ。1本の連載のための投資としてはだいぶ嵩張ったなぁ。
東京中日スポーツや「月刊ドラゴンズ」の連載は続いていたが、この時点で野球4コマに対する執着はかなり薄まっていたかもしれない。ただマンガ誌への未練はまだ多少あったと思うが。
一方、2004年の新規開拓仕事としては、桃園書房の隔月パズル雑誌「まちがい発見!ザ・ワールド」のレギュラーが開始。のちに系列のパズル誌にも仕事の場が広がった。考えたらパズル雑誌って20年前から仕事の場にしてたんだなー。作業は細かかったものの、毎回いろんなテーマで絵が描けたのが楽しかった。
ちなみに桃園書房は「問題実話」(1989年の回参照)の会社。前にも書いたのでネタバレ済みだけど、この仕事は2007年で終わる。
他では、演芸情報誌「東京かわら版」でコラムのタイトルカットを描かせてもらったり、ごはち亭という名古屋料理居酒屋でグッズイラストを描かせてもらったりと、趣味と仕事がごちゃごちゃになりつつあった時期だった。
また書籍の方では、東洋経済新報社から引き続き仕事を回してもらっていた。この年の初頭に「思わず人に話したくなるお金のカラクリ」(小沼啓二氏著)という本のイラストを担当。
加えてもう一社、こう書房という新たなご贔屓筋がこの年から増えた。秋頃に「売れっ娘ホステスの育て方」(難波義行氏著)という実用書のマンガとイラストを担当させてもらった。
いわゆるお水商売の女性向けの入門書で、マンガの点数が結構あったため、実は原稿の買い取り支払いと別に印税でもギャラを頂いていた(表紙や奥付には名前なし)。そしたらこれがなんと、3年半で13刷まで続くベストセラーに。私の関わった本では最も版を重ねたのではないか。
私は13刷でお役御免だったが、その後装丁を変更し、なおも版を重ねていた模様。まぁそれまでで十分ありがたかったからいいや。この本の担当編集者Kさんとも、ここからしばらくお付き合いが続く。
前述したとおり、マンガ誌への未練はまだあって、年イチぐらいのペースで持ち込み用原稿は描いていた。あまりマンガ誌から離れるのもまずい気がして、現場に通う口実の意味合いもあったように記憶している。
それに「もしダメでも、自分のサイトで公開すればいいや」という腹づもりがあった気がする。今思うと、前向きでない考え方だ。一種の「逃げ道」だったのだろう。以前にも書いたように、この程度の絵とアイディアはネットを探せば星の数ほどいるわけだから。
最後に、2001年の回で公開した「めおとMONO録」の他にもう1作、「なかむら記念館」オープン当初から公開していた4コマ「カミのミソ汁」を掲載して、今回はおしまい。
「デクスターズ・ラボ」を意識した絵柄からして、2000年頃に持ち込み用に描いた原稿だと思う。のちに、2004年には新作10余本を描き下ろし、2017年には新旧ネタを8ページ分にまとめてリライト、「カミから目線」と改題してnoteに公開した。
こっちの絵はまだフォルムが固定してなくて拙いので、できればリンクした2017年版と見比べてお楽しみください。
(第21回・了)