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40年目の反省リスト(最終回)まとめ+おまけ

この記事、タイトル通り「40年分のマンガ家としての仕事履歴を振り返って反省点を挙げること」が当初の目的だったのだけど、続けていくうちに、仕事が無くなった自由業者の存在報告になってしまった。
正直、病気をいくつも抱え、地方で孤立し、人間性にも問題のあるイチ自由業者には、状況をかえりみる余裕は無い。
ただ、40年のうちの「あのタイミングはああしておけば進路が今と違っただろうな」と思い返すことはある。それとてタラレバなのだが。
ひとえに、自分のあらゆるスキルの乏しさ、至らなさであった。ひっくり返した水は元には戻らない。


では、出版からインターネットに移った時代の流れは?
2000年代からの個人サイトやSNSなど、現に売れっ子作家は上手に活用している。反面、紙媒体に未練を残していた私はどうだったか?

他サイトへの委託掲載も含めて、私がネット限定で公開したマンガ・イラスト(タイトルのある続き物)は、数えたら20種類以上あった。
クラウドソーシングの仕事は除外して、持ち込み原稿をそのままあげたもの、最初からサイト掲載目的のもの、いろいろである。noteのコンテストのために描いたものとか、noteのマガジンで販売中のものもある。

これは2018年に描いた、note投稿用4コマ「今日のツメアト」の1本。
2007年にブログ用で描いた「ロヂウラ」と同じキャラ。

1998年、仕事が減り始めた自分がネットを始めた理由が「少しでも仕事に繋がれば」だった自分としては、一種の持ち込みのような腕試し感覚で毎回望んでいる。
もっとも、前にも申した通り、ネット公開したマンガが仕事に繋がった経験は皆無。私程度の画力と実績では、ただ描きたいものを描いててもダメってことだろう。


もう一つ、ここ40年のうちに、私が好きな「笑い」を取り巻く社会環境が、総体的に大変化したというのもある。
これも以前毎回申した通りで、私が昭和期、いや15年前に描いた4コマのネタですら、今は世に出したら怒られる可能性がある。
なので現状は、許される範囲でやっている。

スポーツや時事ネタを中心に描いていた当時から同様の危惧を感じ、自分の中で「芯」のような特化したものが欲しくなったのが、1993年頃の夏。そこから落語音源コレクションを躍起になって始めた。
その後2002年には落語特化サイト「なかむら記念館 落語別館」を開設。さらに2012年「日本落画家協会」に参加したことで、一層幅広く活動できるようになった気がする。
これでもし2013年以降も東京に住んでいれば、個人だけでなく「落画協」の営業活動も長く続けられただろう。2016年から名古屋・大須演芸場で作品展示をさせてもらっているのは、その思いも含んでいる。

「寄席描き展」第2回出展作品(2013)
「寄席描き展」第4回出展作品(2016)
桂雀々師(2016、大須演芸場)
吉原風景(2019、大須演芸場)

現在も大須演芸場に展示中の「吉原風景」(サイズが大きいため写真画像)を公開したところで、本記事の締めくくりとさせて頂く。noteで未公開の落画協作品はたくさんあるので、いずれまた。

最後なので、久しぶりに有料ゾーンで作品公開する。
今回の内容に合わせて、以前ブログで公開した、某出版社への持ち込み原稿。今回ヘッダーにも使っていて、作風も絵も全然違う。
描いたのが1997年という、かなり迷っていた時期。
冒頭で記した「あの時ああしておけば」の一つ、「野球4コマか一般マンガ誌か」で野球4コマに振り切った際の後悔を10年後に絵にしたのだが、このセンで進んでたら40年もたなかったのは間違いない。

長らくのお付き合い、ありがとうございました。
(最終回・了)

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