【好きな落語家、好きなネタ】第5回 十代目桂文治
4コマ漫画家兼落語作家にして「落語音源コレクター」の顔も持つ私なかむらが、自分の音源コレクションと観覧体験を元に、好きな落語家さんのネタのベタな思い出をひたすら書き綴るコラムです。なんか回を追うごとに長くなってますので文章量戻します。
第5回は、2004年に亡くなった先代桂文治師について。
~ ~ ~
私が寄席に初めて足を踏み入れたのが1987年の2月、場所は新宿末広亭。
先代文治師は仲入り休憩前の出番で、客席の前3列のお客にしゃべりかけるみたいなフランクな調子で、『ラブレター』という軽いネタを楽しげに演じていました。
文治師は、寄席に通うようになってからどんどん好きになっていった師匠でした。
小柄で黒紋付きに袴姿、ドングリ眼で表情が豊かで、前かがみの姿勢から説教モードになったり、扇子を打ち鳴らしながら講釈口調になったり。
ネタは滑稽噺一辺倒でしたが、とにかく楽しめました。
ホール落語でガッチリとした大ネタを演じて「名人」と称される落語家がいる一方で、気楽に入場できる寄席のお客相手にガンガン笑いを取るタイプだったのが文治師。
そのせいか、キャリアの割にCDなど音源ソフトのリリース数は少なめだったかもしれませんが、音源コレクターの個人的な思いとしては、広いホールの空間で演じられるCDの高座より、寄席中継や番組の公開収録で楽しそうにしゃべる高座の方が、圧倒的に好きです。
寄席通いを始めて3年ほど経った2004年1月、文治師が突然この世を去った時、今までの文治師の高座を思い返したくなって、保管していた寄席のプログラムを全部調べたんですが、えらいもんで、ナマで見た8回の高座がすべて記憶に残っていました。好きなればこそでしょうね。
その中で、今なお忘れられない光景が2つ…
★2002年4月の浅草演芸ホール昼席、この日はネタはやらず漫談のみ。
ちょっと残念に思いつつ、高座が次の三遊亭小遊三師と入れ替わる際、高座を下りる文治師が、小遊三師の出囃子『ボタンとリボン』(元はアメリカ映画の主題歌で軽快なメロディー)に合わせて、はずむようにピョコピョコとした足取りで下がっていったのでした。これには場内も私も大爆笑。
★同じく2002年6月の池袋演芸場昼席、三遊亭円馬師の真打昇進お披露目興行。
なぜか客席最前列に、かなり場違いな感じの茶髪アーミールックの女の子が一人で来ていて、この子が反応が良くてやたらウケる。
文治師の上がりの時、その子がひと声「かわいー!」。思わず文治師も目と眉で「なんだコイツ?」みたいな表情をしつつ、ちょっと照れるそぶりで座布団に。
この日のネタは『蛙茶番』で、時間の都合で主人公が下半身丸出しで銭湯を飛び出すシーンまで。「このあとお店の芝居で間違いがあります、フンドシとチンボコの間違いというお噂…」という原語のド下ネタで締めくくると、下り際に女の子が再び「おもしろーい!」。
その時の文治師の表情がまた百面相みたいで、なんとも言えず最高だったのでありました。
その他にナマで聴けたネタは『親子酒』『長短』『火焔太鼓』『善光寺由来(『お血脈』前半)』『湯屋番』。言うまでもなくどれも十八番。ただ文治師で最も好きだった『あわてもの(堀の内)』に立ち会えなかったのはちょっと心残り。
コレクター的には、八百屋お七が出てくる『お七の十』とか、ほとんど誰も演じない地噺『三国誌』、あとご時世的に今後放送にかからなさそうな『口惜しい(鼻ほしい)』あたりを残してくださったことに感謝です。
晩年には落語芸術協会の会長も務めたりして、エピソードの多い師匠でした。
2005年頃、私がお弟子さんから直接聞いたのは、西武池袋線を愛用していた文治師が、カンカン帽に浴衣にステッキで連日寄席に通っているうちに、いつしか沿線を利用する中高生の間で「あのおじさんに遭遇したらイイことがある」と評判がたった、という話。
池袋線界隈では「ラッキーおじさん」と呼ばれてたそうです。初めてこの話を聞いた時はひっくり返ってウケました。さすが!(第5回・了)