40年目の反省リスト(25)2011~13年
この続き物、年内には終わらせたいので、大いにハショる。
2011年3月に東日本大震災が起きて、東京も大層揺れた。揺れただけではなく、物流がストップして、買い物に数日間往生する体験もした。
それが直接の理由ではないが、「東京暮らしをやめて郷里の愛知へ帰ろう」と決意したのが、同年の夏。
ここから、収入減を埋める仕事探しより、「東京でやり残したことを順番にやっていこう」という思い出作りモードを優先しだした。
まず考えたのが、「クリエイターによる落語会」。
漫画家、イラストレーター、似顔絵師、画家、造形作家他による、「落語」をテーマに扱ったギャラリーである。
こうした展示会の企画は初めてで、全く不慣れでコネも無かったため、いご昭二さん、ちばけいすけさん・佐々木知子さん夫妻という、ギャラリー経験が豊富で顔も広いお三方にスタッフをお願いし、全面的ご助力を得た。
かくして、2012年5月22~26日の5日間、神保町のギャラリーコルソにて「寄席描き展」開催。会のネーミングはちばさんの発案。
私の出展は「落語歌留多」。
以前ブログで読み札を考え、それを絵にしたもの。
ありがたいことに盛況のうちに閉幕、私個人としては本懐を遂げた気分であったが、参加者のウノ・カマキリ先生が「日本落画家協会」を提唱・発足されたことに端を発し、「寄席描き展」は現在も年イチペースで続いている。
池袋演芸場に絵を展示してもらえたのも、いい思い出。
その次に試みたのが、自由業者参加の一大商談イベントへの参加。
こちらは2012年7月4~6日の3日間、東京ビッグサイトで開催された「クリエイターEXPO」。イベント会社の主催で、コミケならば同人誌などを売るブースが並ぶ所を、イラストレーターとか漫画家とかがテーブルを並べ、来る客来る客に次々とプレゼンする。話が合えば、そのまま商談成立という仕組み。
しばらく営業らしい営業をしていなかったので、帰郷の前に何とかあとひと稼ぎしておかねば…と参加してみたのだが、仕事までこぎつけたのは1社だけ。しかも参加費が個人事業主の立場からするとべらぼうに高く、この1社から頂いた仕事のおかげでギリギリ収支トントンだった。
その次が、「日本漫画家協会」への加入。
こちらはウノ先生といごさんの推薦という形で、2012年10月に入会させてもらい、5年間ほど在籍した。
帰郷後は東海支部の一員となったが、帰郷した年に支部長の八幡太郎先生(かつての中日新聞系出版物の顔)が逝去されて以降、活動らしい活動が無くなってしまったのが残念。こちらも仕事的な展開には繋がらなかった。
思い出作りの一環で、お初の出版社に持ち込みをしたりもした。
脈アリの反応をもらったあと、「愛知に帰郷する」と伝えるとその反応が消えたこともあったし、ハナからろくに読んでもくれない編集者もいた。
もう一つ、「10年に1つずつは何か新しいことを」という意識から、2011年に「アートコミュニケーター」なるちょっと漫画家っぽい資格を取得した。もっとも国家資格でなく民間資格で、しかも認定した団体が取得後に無くなってしまい、おそらく現在は失効になってると思う。
ぶっちゃけ、単なる受講料の無駄遣いに終わってしまった。
2年数ヵ月ジタバタした結果、今も残っているのは「日本落画家協会」だけである。
その一方、2012年夏には、こう書房から8年ぶりに書籍の仕事依頼が来た。
「ひな壇芸人のトーク術」。著者は8年前の「売れっ娘ホステスの育て方」
と同じ難波義行氏。
今から何年前だったか、テレビの何かの番組で、ある芸人さんのお宅訪問中、書棚にあったこの本が思い切りクローズアップされたのを見た時は、異常に興奮したなぁ。
別に自分の絵が映った訳じゃないんだけど、すんごい嬉しかった。また売れちゃうんじゃないかと思った。売れなかったけど。
(12月23日追記・調べたら、2021年1月7日深夜にメ~テレで放送した「有吉クイズ」でした。持っていたのは、ぼる塾のきりやはるかさん。東京から数週遅れの放送なので、前年の暮れのオンエアか。はるちゃんありがとー)
そんなわけで、まあまあ刀折れ矢尽きた気分で、2013年5月16日、東京を後にしたわけである。
(第25回・了)