ツユクサでツユクサを塗る
「小学生の頃、ばぁちゃんと朝、散歩に行ってツユクサ摘んで、色水作ろうとしたことがあるわ」
と、別居中の夫が言い出した。
オンライン通話で、庭の植物で草木染めをしてみようかと思っているという私の近況報告をしていた時のこと。
「ばあちゃん、汁で絵を描こうとしてたんかな? あれな、たくさん摘んだつもりでも、おちょこに入れて潰したらほんまにちょっとしかないねん。ほんで俺、ばあちゃんが見てない間にちょっと水を足してん。怒られはせんかったけど、ばあちゃん『あー、それやったら色つかん』って言うて。なんでやろ、今でも覚えてるわ」
「ほんまちょっとだけやってんで。知らんやん?水入れたらあかんようになるって」
あぁ、ちょっと切ない。
40年以上前の幼い日々、知らずに何かをダメにした、似たような出来事が私にもあった。その具体的な記憶は蘇ってこないけれど、耳元ならぬ心元でブンブン羽音がしてゾワゾワする。うっとおしい。それをなんとかしたくて私は夫をせっついてしまう。
「そんなつもりはなかったのに とか思ったん?」
「あーダメにしてしまった とか思ったん?」
夫は、違うとも、そうだとも、それに近いとも言わず、「うーん、どうかなぁ。どうやったやろうなぁ」と答える。ああ、この人こういう感じだった。彼は自分の感情や気持ちを話すことを避ける。いや、そうじゃない。自分の気持ちに気づいてないか、無いことにしているか、あるいは気づいた上でその複雑な色味をなるたけ正確に伝えようとした時、的確に表現する手持ちの言葉が無く、事実の周辺をうろうろするだけの返答をする。まぁなんにせよ、わからないことが多かった。その後、そんなの知りたくもない年月があり、今なおわからないままで、もうどうでもいいのである。自らこんな話をしだしたというだけで充分だろう。
一緒に住んでいた頃、夫は気づいていただろうか。うちの庭では夏の終わりから秋にかけてツユクサがたくさん咲くようになった。今でも。今まさに。
ということで、数日後のお昼前、急いでツユクサの花を集めた。ツユクサは昼過ぎには萎んでしまう。ちなみに、私がはじめてツユクサを見たのは20歳の時で、ツユクサの色水遊びはこれが初めて。
黄色い雄蕊をザッと取り除き、さかづきがないので聞香杯セットの茶杯に入れて潰した。
思ってたより潰しやすいし、汁も確保できそう。
ここまでやったところで思い出す。
「ばあちゃん絵描いとったから、ツユクサ描いて塗ろうと思ったんかもしれん」
下絵が要る!
画像検索で見つけたツユクサのイラストを真似て、鉛筆で水彩紙に下書きをした。
こうしている間にも色水が蒸発してしまわないか気になるので、最低限ツユクサに見えるところでよしとする。
持っている中で一番細い筆の筆先に潰したツユクサをまとわせ、その水分で湿らせておく。それから、汁を含ませた筆で白い花弁をなぞる。
あぁ・・・ツユクサの色だ!
2度塗りしても、まだ汁が余っていたので、もう1個描いて塗ってみた。黄色の水彩絵の具でちょいちょいと雄しべに色をつけると、それなりにツユクサらしくなった。
ほら!出来たよ!と呼びかける。
私に、離れて住む夫に、夏休みになると北陸の父方の実家に預けられていたという少年に。
「その後、ツユクサの色水、どうしたか覚えてる?」
「遊んだんちゃうかな。ガキやったし」
私も遊んでみた。
「きつねの窓」だっけ?
こうやって花の青い汁を塗った両手でひし形の窓を作って覗くと、大切なものが見える…っていう童話があったはず。写ってるのは片手だけれど、ちゃんと両手に塗っている。指と指を合わせて中を覗くと、夏疲れした緑の庭が見えた。
「きつねの窓」に出てくる青色の素は、キキョウだと後日調べて知った。手を洗うと色が落ちてしまうのはツユクサもキキョウも、そして物語も現実も一緒で儚い。あれからひと月、庭のツユクサは抜いてしまったが、紙の上では今も青く咲いている。
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