肯定するってなんだ?
EMS(エッセンシャル・マネジメント・スクール)が始まって、2回目の講義が終了。
今回のテーマは、
「肯定ファースト」「コーチングの本質」について。
いずれも私の関心の高い事項だったので、とても楽しみしていた講義。
ところがその日の午後になり、なんと急な腹痛。
結果的に、2日間に渡り点滴をすることになり、ようやく月曜日のクラスで受講することができた。(結局、大腸憩室炎という悪性ではない病気だったのだけど・・・)
通常のクラスで受けられないことが最初はショックだったけど、こうして振替ができるのがありがたい。しかも通常(メイン)のクラスよりも、少人数だったので、ディスカッションが面白かった。
肯定ファーストは"うさんくさい”
そのディスカッションでの意見で衝撃的だったのは、
「肯定ファーストはうさんくさい」
という意見(結構多かった)
私は、EMSの理念「肯定ファースト」に共感して受講を決めたので、"うさんくさい"と思ったことがなかった。それだけに、「なるほどそう思う人もいるのか〜」と衝撃的だった。
けれど、そんな意見を聞きながら、あることを思い出したのだ。
「そういえば、私だって少し前までそう思っていたではないか!」
と。
人って、以前の感覚を結構忘れてしまうものなんだなと。
私の"うさんくささ"とはこうだ。
「分かる」とか言われてもなんか嘘っぽい。
「なるほど、そうなんですね」と冷静に言われると、何か距離感を感じる。
コーチになりたての頃でもそんな風に思っていたのだから、私は相当ひねくれ者か?
"うさんくささ"が薄れた要因とは?
では、なぜ私が「肯定されること」に対する、うさんくささが薄れたのか?
それを考えみた。
わかって来たことが1つある。
以前は、私自身がうさん臭かったのだ。(笑)
形だけ肯定しているフリ
肯定するという型を、やっていたにすぎなかった。
実際の私は、いろんなことをジャッジするメガネを外さないまま、人と対話していた。
内側のジャッジをそのままに、言葉や表情やうなづきだけは、「肯定」しているフリをしていたのだ。
そう、私は私自身のそのあり方を嘘っぽい。と思っていたから、人のそういう嘘っぽさに、反応していたのだ。
そんな私も、マルつけによって、自分の中にある否定的な考えや感情、物の見方をそのまま認め許すことができるようになった。
結果、自分の感情をそのまま認めることができて、自分に対して「嘘っぽい」と感じることが薄れた。
だから、人に対しても嘘っぽい。うさんくさい。と感じることが薄れたのかもしれないなと結論づけた。
肯定するとは、なんにでも共感することではない
肯定するというと、なんでも共感しなくてはいけないというイメージを持ってしまう人も多いかもしれない。
でも、それは違う。
「分かるけど、共感はできない」
それでいいのだ、ということにマルをつけることが必要。
あなたは、その考えを持ってもいい
私は、その考えも持ってもいい
違ってもいい。共感できなくてもいい。
ただ、相手が何を感じるか、どう考えるかは相手のものだから「あり」にする。
それが、「肯定すること」だと今は思っている。
肯定ファーストとは
まずは、自分の感情や思考や行動に対して、そして、相手の感情や思考や行動に対して、
「いいよ〜」と受け止め、認め、許すことから始めるということではないか。
肯定するとは?マルをつけるとは?
まだまだ、深く考えられそうなテーマだなと。
そして、学びは今日も続く。
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