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『いちご白書』をもう一度。

読みました。
良いノートでした。
ギフトって所が青木選手らしいなぁと。

僕はこの試合はひっくるめて『プロレス』だと書きました。
やはりプロレス・アレルギーある方からは「格闘技じゃないか!」と思われてると思います。
前回も書きましたが、プロレスの試合をしてるから『プロレス』ではないのです。
簡単に言えば僕には格闘技でも『プロレス』と受け止めれる試合が数多くあるのです。
PRIDEやDREAMなんかそうだった。
プロレスラーがするMMAだったという意味ではなく、そこまでの経過・見せてくれる情念・僕達に前に押し付けてくれるモノがあったのだ。
宇野薫選手と青木選手の試合なんかプロレスだった、最大級の。
川尻さんとの試合もですよね。
猪木さんじゃないけど「リングに絵を描いた事があるか?」ですよ。
それを「勝ち負けです」って言ったら「オメェ、アマチュアだな」って言われます。
現に言っています猪木さんは。
プロレスは存在を賭けた闘いなんです。
だから自分が勝っても、負けても存在を失わないかの勝負。
逆に負けても株が上がる選手もいるのです。
勝っても落とす選手もいる。
格闘技もそうでしょう。
青木選手は敗戦されたが、話題はすべて『青木真也』だ。
全部持っていってるんですよ。
ガバッっと。
僕は良い仕事されたと評価した。
アンチは騒ぐけど、それ以外の人は青木選手に期待しているのです。
RIZINに出る・出ないは置いといて。
それだけの事をしてきた方なんです。
20年間闘われてきたんですよ。

後藤丈治選手を0点と評価しました。
試合内容じゃない。
バックステージでの「猪木さんの命日」発言です。
あれ言っちゃダメなんです。
知らないでしょう。猪木さんを。
文化を知らないのに簡単に言うのはおかしいでしょう。
後藤選手は何で怒ってるのか理解していないと思います。
それが悲しい。

これ見た時、すごいガッカリした。
何もわかっていない。
逆に青木選手をバカにしてるのかと思いました。
そんな簡単に理解できる事じゃないんです。
後藤選手には広さもないし、高さもない。

あとはアントニオ小猪木ですね。
もう呼び捨てです。
SNSで知ったんですが、猪木さんの写真に小猪木自身のサイン書いてるんですよ。
小猪木ですよ。
頭おかしいのか?
怒り心頭です。
勘違いするな。
何もわかっていない。
考えていない人が多すぎる。
その流れで良いと思ってる。
いい加減にしろ。
ネジ巻いてる奴も。
ネジ巻かれてる奴も考えろ。

これもすべて考えていないまでの『表現』なんですよ。
だから僕は怒るのです。
考えろって。
猪木さんは「考えてやれ」と言われていた。
咄嗟の表情でも、何時でも誰かは見てると思って考えられていたんですよ。
何故、この時卍固めをするのか?
何故、怒るのか?
すべては考えていたはずだ。
そう考えれば、青木選手とムスメシ選手の試合は『表現』だった。
青木選手が産み出したアオキロックを、ムスメシ選手がアオキロックで勝った。
偶然が必然となった。
その文脈が表現となった。
アオキロックが介錯された日。
これからはムスメシ選手の代名詞になっていくのか。
それはムスメシ選手が一番わかられてると思います。
アオキロックは、ずっとアオキロックなのだから。
だから僕は『プロレス』だったと最大級の評価をするのです。
フリーライドではなく、ムスメシ選手がアオキロックで勝った事により文脈となった。
それは相手が『青木真也』だったからである。
その青木選手がすべてにおいて『強さと闘い』を魅せつけたのである。
強さとは?
闘いとは?
競技力の事だけではないのだ。
競技見たければ、町の柔道大会見てれば良いんだ。
お金をお客さんが一銭でも払えばエンターテイメントなのだ。
何故、僕達はお金を払ってまで観に行くのか?
だからこそ『プロ』とは?なのだ。

これを読めばヒントになります。

こちらもどうぞ。
指先一つまで神経を轟かさなければいけないのです。
それが語り継がれる事もある。
誰かは見てるのです。
それが『表現』なのです。

この試合をずっと見てて思い出した曲がある。
「二人だけのメモリー、どこかでもう一度」
『『いちご白書』という題名はコロンビア大学の学部長ハーバート・ディーンの発言に由来する。ディーンは大学の運営についての学生の意見を、学生たちが苺の味が好きだと言うのと同じくらい重要さを持たないものとして見下した』
ムスメシ選手も年老いた時、この試合を思い出すのだろうか。
ただの点だったのだろうか。
青木選手は思い出すのだろうろうか。
二人だけの想い出がずっと僕達に押し寄せてくる。
過ぎ去った昔があざやかによみがえる。
どこかでもう一度。
きっとそうなるだろう。
きっとだ。

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