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愛という裂け目

宇宙というものは、広がっているのだそうだ。「無」に向かって、果てしなく広がりゆくのだと。いや、私には正直、その「無」というのが何なのか、さっぱりわからない。ただ、「無」という言葉の響きに妙に惹かれる。完全に均衡したエネルギーとアンチエネルギーが、互いを打ち消し合って、何もない静謐な状態になる、らしい。何もない、なんて、そんなのあり得るのかと突っ込みたいが、まあそれが「無」というものらしい。

だが、奇妙なことがあるらしいのだ。その「無」に、誰かが、あるいは何かが、ほんの微かな差異を加える。ほんのひとひら、爪で弾いた程度の小さな揺らぎ。それが起こった瞬間、均衡した両極が揺らぎを生じる。拮抗の糸がほつれ、相殺されるはずだったものが、光となって漏れ出してくるのだという。ああ、それを思うと、なぜかひどく泣きたくなる。

その光――その揺らぎ――それがエネルギーの誕生だそうだ。そして、そのエネルギーが凝縮し、物質となり、すべての存在が生まれるのだという。まるで宇宙そのものが、ほんの些細な間違いからできあがったみたいな話ではないか。完璧な均衡からの脱落。いや、むしろ、完璧な均衡を壊すための微細な力。それを、私は「愛」と呼んでもいいのではないかと思うのだ。

けれど、その愛が生まれるということは、どうしても片割れの「愛の影」が生まれるはずだ。プラスがあればマイナスもある。存在するものがあれば、それを打ち消すものもまた現れるだろう。それならば、そもそも世界なんて、成立しないはずではないか。

しかし、世界はこうしてある。なぜなのだろう。それは、愛の片割れである「影」をも含み込み、なお生かし続ける、途方もない何かが存在するからではないか。ああ、その途方もない何かを、やはり私は「愛」と呼びたくなるのだ。

愛とは、無を裂き、光を生み出し、なおその影を抱きしめるものなのだと思う。そう考えると、宇宙そのものが、何か途方もなく不器用で、しかしひどく愛おしいものに思えてくる。無から生まれる光。それを許す宇宙。それを壊し、抱きしめ、再び広がる。いや、泣けてくるではないか。

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