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古代中国の漢服:日本の「呉服」に通ずる衣装美学を巡る旅

古代中国の服飾は、単なる実用性を超え、時代ごとに独自の美学や文化を纏っている。それぞれの時代を象徴する衣装のスタイルを見ていくと、歴史そのものが織り込まれているようだ。


夏・商・周時代:布と儀礼が紡ぐ物語

最初に訪れるのは、夏・商・周時代。この時代、服装は社会的地位や礼制を映し出す重要な役割を果たしていた。夏の時代、人々は黒い衣裳を纏い、商では白が尊ばれた。そして周の時代には、夏と商の伝統を融合し、黒い上衣(玄衣)と白い裳(素裳)を身に着けるスタイルが定着したと言われている。

商代には特に興味深い二つの服装形態があった。一つは連身の長いローブで、主に女性や奴隷が着ていたもの。もう一つは上衣と下裳に分かれた形式で、上衣には左前合わせ(偏衽)や正面合わせ(対襟)が用いられた。襟元は幅広で、袖は細身。下裳は長いスカートか股が開いたズボンで、腰には幅広の帯を締め、膝には蔽膝(ひざ当て)を垂らしていた。

商代の貴族たちは、日常生活においても絢爛たる絹織物を身にまとい、その上に錦衣(裼)を羽織ることで華やかさを演出していた。服には織物や刺繍、染色で豪華な模様が施され、袖口や襟元には精緻な装飾が加えられていた。玉飾りや冠帽は貴族の象徴であり、冠服制度の萌芽が見られる。一方で、平民や奴隷は粗い麻布を着て冠帽を持たなかった。このコントラストが社会階層を如実に物語る。

春秋戦国時代になると、周代の伝統を受け継ぎつつも、新しい変化が見られた。百家争鳴の時代、多様な思想が服飾文化にも影響を与え、冠服制度が「礼治」の一環として取り入れられたことで、服装が礼儀を示す重要な要素となった。当時の衣服は腰帯で固定され、留め具(帯鉤)や玉製の装飾が付けられることもあった。

この時期には深衣や袍服が登場し、袍服は曲裾袍と襜褕の2種類に分けられた。また、襦裙(上衣とスカートの組み合わせ)もこの時期に現れ、女性たちの装いに新たな彩りを加えた。


秦漢時代:深衣と三重衣が紡ぐ優美なライン

時代が進み、秦漢時代に入ると服装はより洗練されたスタイルへと進化する。秦漢の服飾は戦国時代の影響を引き継ぎつつ、独自の発展を遂げた。

繞襟袍

女性たちの間で流行したのは曲裾袍というローブだ。身体に密着し、裾が地面に引きずるほど長いこの衣装は、歩いても足が見えないという優雅さが特徴だった。特に漢代には、繞襟深衣という複雑な巻きつけスタイルが生まれ、衣服の上には華麗な模様が描かれた。襟元は低く開き、重ね着した下衣の襟が見えるようにデザインされていた。三層以上の衣を重ねる「三重衣」の文化は、当時の繊細な美意識を物語っている。

一方で、袍服が広く普及する中、襦裙(上着とスカート)を着る女性は減少していった。しかし完全に姿を消したわけではなく、楽府詩にも描かれているように、一部の女性たちは短い上着と地面に届く長いスカートを愛用し続けた。1957年に発掘された襦裙の実物が、その存在を証明している。


魏晋南北朝時代:胡服が切り開いた新時代

袿衣

魏晋南北朝時代に入ると、外来文化との接触が服飾文化に大きな影響を与えた。この時代、胡服(異民族風の服装)が広く受け入れられ、中原の伝統的な衣冠に代わるスタイルとして浸透した。

狭い袖、赤や緑の短衣、長靿靴(長い靴筒)、そして装飾的な蹀躞帯(帯飾り)など、これらのデザインは馬上や草原での活動に適しており、実用性と美観を兼ね備えていた。「中原の衣冠は北斉以降、完全に胡服となった」という記録が示すように、漢民族の伝統的な服飾は徐々に姿を消し、新しいスタイルが継承されていった。

この時代の変化は、ただの文化的な影響ではなく、歴史そのものが織り込まれたものだった。五胡十六国の混乱から南北朝の統一に至る過程で、服装は人々の生活と密接に結びつき、時代を映す鏡となっていたのである。


呉服と魏晋南北朝時代の漢服との深い関わり

現在、日本の着物は「呉服」と呼ばれることがある。和服、着物、そして呉服という言葉は今はほぼ同じ意味で用いられている。では疑問に思ったことがないだろうか。なぜ日本の衣服が、明らかに中国の古代国家の名前である「呉服」と呼ばれているのか?

古代、絹織物の技術は遥か中国から伝えられた。その起源は、応神天皇の時代にまで遡るという。

日本は弥生時代。人々は麻や植物繊維で衣を紡いでいた。一方その頃中国は三国志の時代で、魏呉蜀という三つの国が出来上がっていた。その中で一番日本に近い位置にあったのが「」という国だった。そしてこの呉の港から、日本へという新しいトレンドが輸入されたのだ。

絹の技術は、やがて日本の風土に根付き、独自の文化として花開いた。
日本の神話である古事記によると、応神天皇の時代、二人の実の姉妹である呉織(くれはとり)と漢織(あやはとり)という女性が、大阪府池田市に渡り、織物の技術を伝えたという伝説がある。今もその地にある呉服神社に息づいている。呉から伝来した絹織物はその質感と美しさで、瞬く間に日本の貴族社会に浸透していった。それは機能美と装飾美を兼ね備えたものであり、現代の着物の原型となった。そしてこの中国から伝わった新しいトレンド衣装を「呉服」と呼ぶようになった。

江戸時代になると、呉服は一大産業となった。三井越後屋呉服店(現在の三越)の革新――「店前売り」や「現銀掛値なし」といった販売手法は、当時の人々の生活を大きく変えた。呉服商の繁栄は、着物が庶民にまで広がる契機となり、町人文化を彩る重要な要素となった。

このように江戸時代に、呉服が大きな広がりを見せたため、衣服の代名詞となっていった。それで、着物全般を指して、呉服と呼ばれるようになっていったのだ。

これは現在の「洋服」という言葉の用い方の変化人ているものがあろう。もともと西洋式の服という意味だった「洋服」だったが、日本の欧米化によって洋服の存在価値が大きくなり、現在では「お洋服」というように衣服全般を指す言葉として用いられるようになっている。

千年の時を超え、呉服は今も新たな物語を紡ぎ続けている。それは決して過去の遺物ではない。現代においても、その輝きは色褪せることなく、日本人の心に深く刻まれている。呉服――それは、時代を超えて紡がれる絹の詩なのだ。

古代中国の服飾文化は、単なる衣類以上の存在であり、時代の変遷とともに進化を続けてきた。それぞれの衣装には当時の社会的価値観や文化的交流、そして人々の願いが織り込まれている。まるで歴史という大地に咲く色とりどりの花のように、その多様性と美しさは現代の私たちをも魅了してやまない。

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