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宣太后 ミーユエのモデル

ドラマ「ミーユエ 王朝を照らす月」の主人公ミーユエです。ドラマでは「ミーユエ(羋月)」と呼ばれていますが、歴史書の中では彼女の本命は記されていません。この投稿では、「宣太后」と呼称します。秦の始皇帝のヒイお婆ちゃんになります。

宣太后(紀元前344年頃 - 紀元前265年)は、芈(み)姓を持ち、楚国丹陽で生まれました。芈八子、秦宣太后とも呼ばれ、戦国時代の秦国で王太后を務めました。秦惠文王の側室であり、秦昭襄王の母でもあります。

16歳で秦惠文王(嬴驷)に嫁ぎ、「八子」の称号を与えられ、一女三男をもうけました。秦惠文王の嫡子であった秦武王(嬴蕩)が亡くなると、秦惠文后が庶長子である嬴壮を王として擁立しました。しかし、芈八子は弟の魏冉らの助力を得て兵を挙げ、自らの息子である嬴稷を新たな王として即位させました。この過程で秦惠文后、嬴壮、その弟の嬴雍を排除しました。

秦昭襄王(嬴稷)の即位後、芈八子は摂政を行い、自ら「宣太后」と名乗りました。彼女は親族を重用し、「四貴」と呼ばれる集団を形成。これにより、太后による摂政と外戚による権力掌握の先例を作りました。 摂政期間中、楚への遠征を拒否し韓を救うことに反対しましたが、秦昭襄王はこれを受け入れず、楚へ軍を派遣して韓を救いました。また、義渠王との密通により子をもうけ、その後義渠王を謀殺して義渠国を滅ぼしました。

紀元前266年、宣太后は秦昭襄王の命令により廃位され、彼女が重用していた「四貴」も全員が国外に追放されました。翌年(紀元前265年)10月、宣太后は失意のうちに亡くなり 、芷陽の骊山に葬られました。

生涯

楚国での生誕

宣太后は芈(み)姓を持ち、紀元前344年、楚宣王26年に楚国の王族の娘として生まれました。

秦王への嫁入り

紀元前329年、楚威王が崩御し、楚懐王が即位すると、秦との政略結婚が結ばれました。このとき16歳だった芈氏は秦に嫁ぎ、秦惠文王(嬴驷)の妃となりました。彼女は一女三男をもうけました。17歳(紀元前328年)のときに長女の嬴氏を産み、後に嬴氏は燕昭王の后となります。20歳(紀元前325年)で長男の嬴稷を出産し、彼は後に秦昭襄王となりました。次男の嬴悝は高陵君に、末子の嬴市は泾陽君に封じられました。

叛乱と篡位

紀元前311年、秦惠文王が崩御した後、嫡子である嬴荡(太子)が19歳で即位し、秦武王となりました。しかし、紀元前307年、秦武王が洛陽で周の太廟にある龍紋の赤鼎を持ち上げようとし、足を骨折して急死。享年23歳で子がいませんでした。

このとき、秦惠文后の魏氏は庶長子である嬴壮を新たな秦王に立て、左丞相の甘茂がこれを支持しました。一方で右丞相の樗里疾は洛陽から秦武王の棺を咸陽に護送中でした。

その頃、趙武霊王は秦国内の混乱を狙い、燕国に人質としていた芈八子の長男嬴稷を急ぎ秦国へ送り返しました。当時38歳だった芈八子は、異父弟の魏冉や甥の向寿と密かに計画を練り、樗里疾を味方に引き入れて兵を挙げ、嬴稷を新たな秦王に擁立しました。甘茂は情勢を見て百官とともに嬴稷を支持する側に寝返りました。その結果、秦王嬴壮とその同母弟の嬴雍は支持者を連れて咸陽から逃亡しました。

嬴稷は篡位に成功し、19歳で秦昭襄王として即位しました。しかしまだ冠礼を行っておらず、親政はできない状態でした。そのため、芈八子が摂政として朝政を掌握し、自ら「宣太后」と名乗りました。また、異父弟の魏冉を政務の補佐に任命しました。

歴史の歪曲

宣太后母子は正統な後継ではなく、叛乱による篡位でした。しかし、勝者が王となり、敗者が賊とされる中で、秦の史書『秦記』は本来正統な後継者である嬴壮(秦季君)を篡位者と記し、実際には篡位者である嬴稷を正統な王として記録しました。司馬遷が『秦記』を鵜呑みにしたため、この偽史は『史記』に記され、後世の史家たちも同様に受け入れてしまいました。そのため、この「賊が賊を追う」とも言うべき偽史が現在まで伝わっています。

摂政期の行動

宣太后は摂政中、甘茂が嬴壮を擁立した罪を追及しました。甘茂は処罰を恐れ魏国に逃亡します。その後2年で魏冉は嬴壮とその弟嬴雍を討伐しました。秦国内の混乱が収束すると、宣太后は秦惠文后(魏氏)に死を命じました。

秦国政への介入

韓(春秋戦国の一国)への援軍拒否

紀元前307年、楚懐王が韓の雍氏を包囲すると、韓襄王は何度も使者を秦に送り、援軍を求めました。しかし、宣太后は楚国出身であったため、兵を派遣することに反対しました。彼女は韓の使者である尚靳を召し、次のように言いました。
「かつて妾が秦惠文王に仕えていた頃、大王が妾の脚に脚を乗せたときはとても疲れて耐えられませんでした。しかし、大王が全身を妾に預けたときは、それほど重く感じませんでした。これはその方が妾にとって心地よかったからです。秦が韓を助けると言っても、兵が足りず、物資も十分でなければ救援は叶いません。韓を救うには毎日莫大な財を費やすことになりますが、それが妾に何の利益をもたらすのでしょう?」
こうして、宣太后は韓救援を拒否しました。

その後、韓襄王は改めて張翠を秦国に派遣し、秦の将軍甘茂と会談しました。甘茂は秦昭襄王にこう進言しました。「もし韓が楚に従えば、楚と韓が魏を挟み、秦に害を及ぼすでしょう。すぐに韓を救援すべきです。」秦昭襄王はこれを受け入れ、即座に兵を派遣して韓を救援しました。

義渠の滅亡

紀元前331年、義渠国内で内乱が発生し、秦惠文王は庶長操を派遣してこれを鎮圧しました。その後、紀元前327年には義渠国内に県を設置し、義渠王を秦の臣下としました。しかし、紀元前319年、義渠は秦に対抗して郁郅を奪還し、翌年には楚、韓、趙、魏、燕の五国と連合して秦に攻め込みました。この隙を突いて義渠は李帛で秦軍を大敗させました。紀元前314年、秦惠文王は再び兵を送り、徒泾を含む25の城を奪取し、義渠の国力を大きく削ぎました。

紀元前306年、秦昭襄王が即位すると、義渠王は朝貢のため秦を訪れました。この際、宣太后は義渠王と密通し、二人の子をもうけました。しかし、紀元前272年、宣太后は甘泉宮で義渠王を誘い出して謀殺しました。これを機に秦国は義渠を滅ぼし、義渠の旧領に陇西、北地、上郡の三郡を設置しました。

晩年の廃位

宣太后が政務を掌握していた時代、彼女は弟の魏冉や芈戎、さらに息子の公子悝(こうしひ)と公子芾(こうしふ)ら「四貴」と呼ばれる側近たちを登用して政務を任せました。この「四貴」による専横は、秦昭襄王の権力を大きく制限するものでした。その状況に対し、秦国の重臣である范睢(はんそ)は秦昭襄王にこう進言しました。「現在の秦国では、国民は太后と四貴の存在しか知らず、秦王の存在を忘れてしまっています。」

魏の出身で秦国に亡命してきた范睢は秦昭襄王に重用され、紀元前266年(秦昭襄王41年)に、彼は四貴の権力を削ぐべきだと進言しました。淖齿(じょうし)や李兑(りたい)のように、君主を弑し国家を乗っ取るような事態を避けるためです。

秦昭襄王は范睢の提案を受け入れ、宣太后を廃位するとともに、魏冉、芈戎、公子悝、公子芾の四貴を都・咸陽から追放しました。

力を失い憂い没す

翌年の紀元前265年(秦昭襄王42年)10月、宣太后は失意の中で亡くなりました(「憂死」と記されています)。彼女の遺体は芷陽の驪山に葬られました。

歴史的評価

南朝の范晔(はんえつ)はこう述べています。
「ただ秦の羋太后(宣太后)こそが初めて政権を握った太后であり、故に穰侯(魏冉)の権力は昭王を凌駕し、その家は嬴氏一族全体よりも富み栄えた。」

同じく南朝の劉勰(りゅうきょう)は、宣太后を指して「宣太后は秦を乱し、呂氏(呂后)は漢を危機に陥れた」と評しています。

近代の歴史家である馬非百(ばひひゃく)はこう述べています。
「宣太后は母后という高い地位を利用し、義渠王を誘惑して子を産んだ後に謀殺し、一挙に秦国の西の脅威であった義渠を滅亡させた。この功績により、秦は東方への進出に専念できるようになり、背後の不安を完全に取り除いた。彼女の功績は、巴蜀を攻略した張儀や司馬錯に匹敵する。」

逸話・典故

外戚の重用

宣太后は幼い息子の王位を安定させるため、最も直接的な方法である政略結婚を利用しました。具体的には、自分の息子に楚国の公女を迎え入れ王后とし、同時に秦国の女性を楚国へ嫁がせました。

その一方で、大権を握った宣太后は、自らの信頼する人物たちを次々と登用しました。その信頼する人物たちとは、言うまでもなく宣太后の実家側の親族でした。

楚懷王の推薦を受け、宣太后は母方の一族である向寿(しょうじゅ)を秦国の宰相に任命しました。この推薦から、芈八子(宣太后)の母親は「向」姓であった可能性が高いと考えられます。また、外甥の即位を支援して功績を挙げた魏冉(ぎぜん)も重用され、穰侯(じょうこう)の称号を与えられました。その封地は穰(現在の河南省鄧州市)で、後に陶邑(現在の山東省定陶県)も加えられました。魏冉は宣太后の異父弟でした。さらに、同父弟である芈戎(びじゅう)は華陽君に封じられ、当初の封地は陝西省高陵でしたが、その後、新城君に改封され、封地は河南省密県(現在の河南省新密市)に移されました。

また、宣太后の二人の息子も当然のように封じられました。公子芾(こうしふ)は泾陽君に封じられ、封地は現在の陝西省泾陽にありましたが、その後宛(現在の河南省南陽市)に移されました。一方、公子悝(こうしひ)は高陵君に封じられ、封地は西安高陵にありましたが、後に邓(鄧州市)に移されました。

醜男への愛情

宣太后は「魏丑夫(ぎしゅうふ)」という醜い夫を非常に愛していました。ある時、宣太后が病気で死期が近づいた際、魏丑夫を自分の殉葬者として一緒に葬るよう命じました。

魏丑夫はこの命令を聞いて恐怖に震え、庸芮(ようぜい)という人物に説得を依頼しました。庸芮はまず宣太后に「人は死後、現世の出来事を知覚できるのでしょうか」と問いかけました。宣太后が「知覚することはできない」と答えると、庸芮は続けて言いました。「もし人が死後に何も感じないのであれば、なぜ太后様は愛する人をわざわざ死に追いやるのですか? もし死人に知覚があるなら、先王は太后様が不義を働いたことで、既に激しく恨んでいるはずです。太后様はその過ちを償うことすらできていないのに、魏丑夫との私情を持ち続けるのはどういうことですか?」

この言葉に宣太后は納得し、魏丑夫に殉葬させる命令を撤回しました。

人物に関する議論

「朕」の使用について

一部のドラマでは、宣太后が朝廷で自らを「朕」と呼ぶシーンが描かれています。しかし、これは戦国時代の慣例に反しており、脚本家の不注意や知識不足による創作とされています。

史料によれば、宣太后は自らを「妾」または「我」と称しており、「朕」と名乗った記録はありません。たとえば、『戦国策』には以下の記述があります。

  • 「宣太后谓尚子曰:‘妾事先王也。’(宣太后が尚子に言った:『私は先王に仕えていました』)」

  • 「太后病将死,出令曰:‘为我葬,必以魏子为殉。(太后は病に倒れ死期が迫った際、『私を葬る際には必ず魏子を殉葬させなさい』と命じた)」

これらの記録から、宣太后が「朕」を用いたという説は誤りであることがわかります。

「太后」の称号の起源

「太后」という称号が宣太后から始まったという説があります。この説は宋代の高承が記した『事物纪原・巻一』に由来します。同書では以下のように述べられています。

  • 『史記・秦本纪』曰く:「昭王の母、芈氏は宣太后と号された。この時から母を『太后』と呼ぶようになった。范雎が秦王に『太后』について語る記録があり、後に趙孝成王の治世でも『太后』が政務を執った記録がある。このように、『太后』という称号は秦昭王の時代に始まり、漢代でもこれを受け継ぎ、皇帝の母を『皇太后』と尊称した。」

しかし、宣太后以前の史料にも「太后」という称号が見られます。たとえば、

  • 『戦国策』では魏惠王の母を「太后」と称しています。

  • 『竹書紀年』では秦惠文王の后を「太后」と記しています。

したがって、宣太后が歴史上初めての「太后」ではないと考えられます。

兵馬俑の主についての議論

秦の兵馬俑の主人が宣太后であるとする説は、学者の陳景元によって提唱されましたが、これを裏付ける証拠はなく、考古学界では支持されていません。

陳景元は、兵馬俑から出土した奇妙な文字に注目しました。当初、考古学者たちはこの文字を「脾」と解釈しましたが、陳景元は疑問を呈し、文字の左側の「月」は明らかに識別できるものの、右側の「卑」に該当するような文字形が見当たらないと述べました。『金文編』や『古籀彙編』を調べても解決には至らず、古文字の専門家である段熙仲教授に相談したところ、段教授はこの文字が二つの独立した字「月」と「芈」から成る可能性を指摘しました。段教授は、この「月芈」という刻印は阿房宮遺跡の筒瓦に見られる「芈月」と同一であると考えました。

また、陳景元は兵馬俑のいくつかの特徴が楚の文化を反映していると主張しました。たとえば、兵馬俑の彩色に赤や紫が多く使われている点は楚人の好みに近いとしています。さらに、軍事や交通の観点から兵馬俑を分析し、もし兵馬俑の主人が秦始皇であるならば、説明のつかない特徴が多いとし、秦始皇ではなく秦始皇の高祖母である宣太后である可能性が高いと結論づけました。

しかし、考古学的証拠は兵馬俑の主人が秦始皇であることを示しており、この事実は動かし難いものです。兵馬俑から出土した兵器には、「五年、相邦呂不韋造」といった銘文が刻まれており、呂不韋の時代に制作されたものであることが明らかです。呂不韋の時代の兵器が宣太后の時代に存在することはあり得ません。

また、兵馬俑の彩色が赤や紫であることをもって宣太后の時代のものであるとする説も、説得力に欠けます。秦は黒を尊ぶ文化がありましたが、全ての人が黒衣を着ていたわけではありません。さらに、秦王室には楚の血統を引く人物が数多く存在し、秦始皇の祖母である華陽太后も楚出身です。

最後に、宣太后は芷陽の驪山に埋葬されていますが、兵馬俑がある場所は芷陽とは異なります。この点も、兵馬俑の主人が宣太后ではないことを裏付けています。

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