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需要なんて産まれた時からありませんでしたが、何か?

 自分がいかに無価値でどうしようもなくて何の役にも立たない人間であるかというような刷り込みをされ希望に溢れていた(半分幻想入ってる)10代の殆どを日陰どころか陽の光もないようなところで過ごし、どうにか無理矢理こじ開けて太陽の下に出てみたはいいけどいつも燦々と輝いていると思い込んでいた幻想を曇り空にぶち破られた20代は人並みになろうと必死になっていたものの土台の違いを痛感し、そんな幸せすら手に入れられないのかともがき苦しみ続けていた。人間だもの、羨ましくもなるしねたむことたってあるよ。
 なんと意味のない、ペラ紙1枚に3行で片付く貧乏な家のカルピスより薄っぺらい人生だろう。恥じる前に閉じたくなる、表紙もないのに。
 自分で閉じることを諦めて30代を歩いている今、ある方に言われたことがきっかけで始めた自己有用感と自己肯定感のトレーニングにおいて一つ自分の中で進歩したんだと思えることがあったので何となく書き記すことにした。

 一言で片付ければ、恐らく…いや確実に産まれた時から需要なんてなかった。あるわけなかった。そんなもの存在するわけない。あるってんなら責任持って提示してみろ。出せねーよな?んなもん自分が一番よく理解してますよ。そしてそれは今も変わらないし、この先世相が変化すればあるいは、需要が出てくるかもしれないが今のところその見込みはない。それはもう1+1=2という当たり前の話がひっくり返るぐらいの何かが起きればなんていう天文学もジャンピング土下座するような確率の話だと思っているがここ最近は「需要は無いけど価値はある」と思えるようになっていることが大きな一歩だと思っている。
 他所様からすればものすごくしょーもない話かもしれないが、他所は他所。お前らには1ピコメートルも関係ない話だしなんか迷惑かけました?って話なのでこんなもん自分の中でそう思えるかどうかなんだと。未だ人の目を気にする部分は改善できていないし街で幸せそうな番が目に飛び込んでくれば画面の向こう側へと意識をスイッチングさせるし接触悪けりゃ滅びて二度と再生するなと思うで日々あるが、兎角「今は」と末尾に付け加えればかなり強引ではあるがポジティブな印象に持ち込めなくもないと気付かされたわけだ。
 「あーもうできるわけないやん、今は。」
 不思議とこれだけで後の可能性を残して前へと進める原動力のようなものになるんだから言葉ってのは不思議なもんである。どんだけ単純やねんって思ったけど、単純な方が生きやすいとはまさにこのことなんだろう。

 確かに需要は無い、が別のベクトルで価値を見出してその部分を強化することはできる。よくわからないきっかけで始めた減量にほんの少しの効果が出てきていることも大きい。このままのペースで落としていけば…なんて未来の話もできるようになる。一つ自分の中でこれは続けていこうと思う。全くと言っていいほど無い自身の成功体験に大きな礎となり得るものだからだ。成功体験は自信へとつながり、ポジディブなローテーションが完成すればこの先の人生で何かしら取り戻す…いや、得るものが増えるように思う。
 そうすれば、副次的に生まれた何かも素直に受けいれられるんじゃ無かろうかとどこかで考えている。多分だけど、もっとやりたいことが増える。そしてそれができる範囲が広がっていってギャップを少しづつ埋めていけるだろう。
 その波に乗れたら、人生楽しいなって思えるかもしれない。というか、その過程を今密かに楽しんでいるのかもしれない。

 まぁその前に、七夕が雨で喜んでるところから改善せねばとも同時に思うが。御伽話にまで噛みついてんだもんそら生き辛いよ。

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市場価値と需要ってほぼ≒なのは知ってるし、本気で天地がひっくり返れば需要も生まれるんだろうなという考えは特に変わらんけど「価値」は別物だと信じている。どうあがいたっていつの時代も根底にあるものは一緒だしそうそう変わるもんでも無いことも知っている。
しょーもない市場に値踏みされて自分を消費して疲弊するように仕向けられた世相とは違う視点で生きていくのが理想だが、まだまだ遠い。今は。

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