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「3月のすき焼き」

 卒業シーズン、緩む西高東低の気圧配置、少しずつ長くなる日の入時間…
3月の季語を探せば週刊誌ぐらいの厚さにはなりそうなもんたが、自分にとっては1年の25%をもう消化しようとしつつあることへの焦燥感や恐怖もさることながらほんの少しだけ思い出すことがある。
純粋な山なし、オチなし、意味無しの雑筆であることはご承知おきいただいているであろうところだが、今回は特にその傾向が強いことを先にお断りしておく。

 日本一でかい水溜まりの辺に生を受けた私はひどいアレルギー性鼻炎を患っており、この時期ともなればスギの花粉がよってたかって私の鼻腔を攻撃してくる全くもって嬉しくもない、なんなら全てのスギをこの世から抹消したくなるシーズンであるがそれと同時に色を喪っていた10代の景色が一気に色付き、ある一片の光を得た時期でもあった。その後の苦労も絶えないものではあったが、今それなりに生きてられるのもこの時期があったからこそなんだろうと思うことにしておいて3月というのは全くどうして両極端であるのかと考えてしまうが鬱屈とした寒さが少しずつではあるが緩んでいき気持にも少しだけ余裕が生まれるからこそなのかもしれない。そろそろタイトル詐欺になりそうだ、末端区間で各駅に停車する特急みたくなってしまうのでいい加減コマを進めるとしよう。

 こんな駄文を読んでくださる奇特な方に伺いたいのは、すき焼きとはいつどんなシチュエーションで食べるものなのか?ということだ。
盆暮れ正月などの特別なタイミング?おめでたいことがあった時?なんとなくではあるがこういった回答になるのは自明の理だが、
「すき焼きなんかいつ食っても同じ。肉が美味いかどうかだろうよ。」
自分は正直こう思っていた。食いたいときに食いたいもん食うのが幸せだからだ。
そのスタンスは今もあまり変わっていないし、ある種の制御下でもなければいつでも好きなものを食べられるのは自身の置かれた望んでもないがそうなった環境下においては最大の特権とでも言おうか、宵越しの銭に頭ん中のRAMを割く必要がない非国民には何の足しにもならない経済活動で社会に貢献するぐらいしか選択肢がないためだ。まぁ、このままだといつも通りルッキズムへのヘイトをぶちまけるだけなのでやめておく。年中いただこうと思えばいつでもいただけるものにわざわざ時期の縛りを設ける、いささか自分らしくもない思考に至ったのにはそれ相応の理由が・・・ない。ただ何となくそう思っただけの理由を今から垂れ流していく。

 先に断っておくが、3月にすき焼きを食べた鮮明な記憶はない。
ではどうしてこんなことを思いついたのかというと、はっきり言ってただの願望である。年度末の何となく忙しない空気の中、確実に上昇する気温とともに柔らかな西日を浴びながらしっぽりと誰かとすき焼きを囲めれば幸せなんじゃないかというくっだらねぇ妄想が実現すればこの上ない安堵感を覚えるのではないか?ただそれだけだ。風情とも違う、筆舌に尽くしがたい何か。叶うかどうかは自分の知るところではないが。
どこかに食べに行くわけでもない、家でわざわざすき焼き用の鍋を使うわけでもない何ならフライパンやアルミの鍋でいい。白菜と豆腐とネギと肉。これだけでいい。サブスクのVODで映画でも見ながらなんとなくゆるっとした時間を過ごせればそれでいい。西日と美味いものでほどよく気持ちがほぐれアルコールで温まった身体を窓を開けた時の凛とした空気がちょうどよく冷やしてくれる、そんな感じ。

 ただの願望、理想論にここまで筆が進んでしまうのは絶望的に叶いそうにないものだと思ってしまうが別にそこまで悲観的でもない。ただただ今回はシンプルにそうしたいなと思ったことをつらつらと書きしたためた。もう少し似合わない言い回しをすれば「3月の雨がそうさせた」とでもしておこう。
物理的な平穏はこの国に生を受けた時点である程度条件がそろえば簡単に手に入るが、こういった平穏を手にすることができればもっと豊かに心の余裕が生まれるのかもしれないといった思考がどこかにあるだけ。平和ボケできるだけ幸せなのは間違いない。

 まぁ、そのうち。生きてりゃそんな幸運に巡り合うこともあるだろう。
そんな風に乾燥機のタイマーがゼロになるのを待つ3月1日。

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Little Green Monsterが明日リリースするアルバムの中に3月9日のカバーがあって、それがこいんらんど コインランドリーの中で流れてたからなんとなく筆を進めた。雨の日は不思議とキーボードを打つスピードも上がるのは、もう2月が終わったからなのか。

ある程度片付いたら酒でも飲もう。そうしよう。

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