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月が綺麗でも星が綺麗でも、何も言わない方がいい

 軽く散歩に出かけたらえらく潮位が上がっていることに気づき、ふと空を見上げるとまんまるのお月様が顔を覗かせていた。
あんなもんがデカく見えるだけで引力が多少変わって水位が上がるんだから物理法則はスケールがでかいんだなぁと思いつつも、満月と満開に咲いた桜を見ながら独りでこれらを楽しむだけの余裕なんてのは正直言ってどこにもなく、只々ルーティーンをこなしていく3月の終わりの夜に吹く風は汗だくになった身体を適度にクールダウンさせるくらいには気持ちの良いものであった。

 「石に枕し流れに嗽ぐ」という故事はかの文豪がペンネームにしたぐらいには有名だが、この文豪がどうにも捻くれ者…と言うよりはもうメンヘラに近い何かでは無いかと感じたのは今から遠い昔。まだ私が詰襟を着ていた時代にまで遡る。と言っても15年ほど前のことだが。
授業の題材になった小説を読み解いていく中で感じたのは、
「このおっさんとにかく病んでるな。」
これに尽きる。

決して真面目な学生ではなかった私だが、何故かこの小説だけは邂逅の瞬間をよく覚えている。
「流れに枕し、石に嗽ぐ」彼の捻くれ具合にシンパシーを覚えたのかもしれない。

 "I love you."は『我、君を愛す』と訳した生徒に「日本人がそんなこと言うわけ無かろう。月が綺麗ですね。ぐらいのもんだ。」という逸話はあまりにも有名だ。何とも奥ゆかしいではないか。さすがは近代文学史にその名を連ねる文豪である…と言いたいが、これはどうも都市伝説らしい。まぁそんなことはどうでもいいが。
板垣退助の壇上での言葉も、蓋を開ければ病院のベッドの上で方言丸出しで口走ったとのことらしいしまぁ歴史に多少の脚色だの何だのが加わるのはよくあることだ。

-閑話休題

 そんな文豪の都市伝説に加えて、「星が綺麗ですね。」なんて言い回しもあるらしい。
意味は「あなたは私の想いなど知る由もないでしょう」とのことだ。
何後年先の、遠いものだと江戸時代に発せられた光が現代において届いているというのは多少なりともロマンを感じさせるのは間違いない。が、人間はそこまで長く生を享受できるようにはできていない。
仮に出来たとしても、そんなもん享受するくらいなら明日JRを止めたほうがマシだと感じてしまうだろう。

 元来生物というのは、生殖を持って遺伝子を後世に伝えていく(Gene)ものであるが人間には文化的遺伝(Meme)という側面も存在する。
まぁものの見事に劣等種でしかない私が後世に遺伝子を伝えることなどできるはずもなく、20代後半になる頃には文化的遺伝の側面で何か残せないかと本格的に考え始めていた。
高校時代なんて多感な時期にメタルギアなんかやるからこういうことになるんですよ、全く。
自分が何を残せるのか、と考えれば考えるほど「何も残さない」というのが最適解という答えに辿り着く。

 自分という存在は、ある種淘汰されるべくこの世に生を受けたのだとすれば何とも惨めなことだろうと思う反面、生物としての責任や役割を全うする必要がないとも考えられる。
生物とは不思議なもので、遺伝子レベルで刻まれた負の現実はいくらひた隠しにしようと表に滲みでてくるもので、どれだけ取り繕ったところでそんな劣等種の盛り合わせ398円をお買い上げするようなバカは存在せず、結果的に自分は役割と責任を負わない代わりに孤独という罰を与えられたのであると考えればある程度納得してしまうから不思議なものだ。
孤独のプロ、なんで言えば聞こえはいいが結局のところ無い物ねだりの積み重ねであることも実は理解していたりするのだが。

 結局、月が綺麗でも星が綺麗でも自分には関係のないモニターの向こう側で起きている出来事のようだ。
だからこそ、何も言わない方が良いのかもしれない。


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ニューズウィーク日本版に、日本人は孤独耐性強すぎやろみたいた記事があった。
その中には他人に頼らない、各人がそれぞれのソーシャルディスタンスを持ち干渉しない。なんて日本に帰化した筆者が記している。

確かにそういう側面もあるが、
中にはこういう「別に好き好んで独りやってんじゃねーよ」というヤツもいるんだよな。

夜を迎える度に、そう思ってしまう。

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