見出し画像

ビジネス歳時記 武士のおもてなし 第15話「団扇」

涼風を扇ぎ贈る、心遣い

陰暦の7月15日は盂蘭盆※で、各地で祖先の霊を迎え、送る盆行事が行われます。関東では7月、関西では8月にする所が多く、夏祭や盆踊りなども賑やかに夏が始まります。

浴衣がけで団扇を手にした人たちが、夏の夜を楽しむ姿。それは歴史を遡って、すでに戦国時代から見られます。盆踊りには、お迎えした霊を陽気にお送りするという意味が込められていたそうです。団扇は「打羽」とも書き、蠅や蚊を打ち払うとことから、また扇ぎ出す風で魔物などを打ち払うという意味もあったようです。

「信長様が、団扇を手に盆踊り!」。今なら、そんな週刊誌の見出しになりそうなエピソードが、『信長公記』※に書かれています。今でいう新聞記事の「首相の動向」のような、織田信長※の行動を詳細に記した記録です。

ある年の7月18日、信長は津島(愛知県津島市)で仮装をして参加する盆踊りの会を開催しました。鬼やお地蔵さんなどに扮した家来たちを引き連れ、信長は天女のような衣裳で踊りを披露したということです。

集まった村人は大喜びで、後日、そのなかの数人が清州城を訪れ、信長に踊りを見せて返礼としました。これにいたく感激した信長は、「これは剽軽だ!」などと声をかけお茶を淹れて労い、自ら団扇で彼らを扇いでもてなしました。

あの冷酷無比といわれた信長は、一方では「うつけ者」と呼ばれた気分屋でしたが、喜びや怒りなど、感情をそのまま出す子どものような武将でもあったのです。

団扇は奈良時代に中国からもたらされ、江戸時代には武士や庶民の生活の中にも浸透し、実用以外に装飾品としての要素も加わってきます。江戸中期の元禄時代からは、女性の夕涼みには欠かせないアイテムになりました。

例えば、振り回すと音色が出る銀でつくられた鈴虫のマスコットをつけたり、人気の歌舞伎役者の絵を描いたり、目にも涼しげな絹張りの団扇や、水に濡らして気化熱で涼しさを味わう水団扇※など、新作が次々に作られました。
 
団扇は生活が苦しい下級武士たちの内職の手仕事として、傘張りと並んでかなりの数が手がけられています。「日本橋“町”物語」※によると、日本橋小舟町の一角に団扇問屋があり、年間約193万本もの団扇張りを武士たちに出していたという記録が残されているそうです。

「寝ていても団扇の動く親心」―――こうして、暮らしの中に溶け込み、武士の生活をも支えた団扇。江戸時代に詠まれた江戸川柳には、こんな団扇にまつわる微笑ましい句も登場します。

その背景には、あの信長が踊りに訪れた村人たちに対してとったように、自分を扇ぐのではなく、相手を労いもてなすために「うちわす(団扇する)」という動詞的な使い方が、武士を含めて人々の間に深く根付いていたのかもしれません。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※盂蘭盆
お盆。霊祭り(たままつり)。7月15日を中心に祖先の冥福を祈る仏事。迎え火を焚いて祖先の霊を迎え、供物を供えて、僧侶にお経をあげてもらい、墓参りや、送り火を焚いて霊を送る。現在は、地方により陰暦で行う所と、ひと月遅れの8月15日前後に行う所がある。

※『信長公記』
織田信長の家臣であった太田牛一が、慶長15年(1610)ころに完成させた信長の一代記。全16巻からなり、信長の生誕から本能寺の変までの生涯が簡潔な文章で記されている。信頼性のある一級史料として評価されている。

※織田信長[1534-1582]
安土桃山時代の武将。桶狭間の戦いで今川義元を討って尾張を統一。のちに京都で比叡山を焼き払い、将軍足利義昭を追放するなどした。安土(滋賀県)に築城。京都の本能寺で明智光秀の謀反にあって自害した。

※水団扇
透けるように薄い雁皮紙に、うるしを塗って作られた団扇。耐水性が高く、水に濡らして扇いで涼味を楽しむ。岐阜の特産で「岐阜団扇」ともいう。

※「日本橋“町”物語」
東京都印刷工業組合日本橋支部HPに掲載された日本橋小舟町に関する記事。団扇問屋についての賑わいや武士の下請けについても説明されている。
http://www.nihonbashi.gr.jp/story/kobunacho.html


参考資料
『話の大事典 第一巻』(日置昌一著 萬里閣)
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著 中川太古訳 新人物文庫)
『ヴィジュアル〈もの〉と日本人の文化誌』(秋山忠彌著 雄山閣出版)
『日本風俗史事典』(日本風俗史学会 弘文堂)

いいなと思ったら応援しよう!