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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 第12話「梅干しと塩加減」

ソウルフードに隠された、健康づくり

6月は梅雨の季節。雨の合間を縫って梅干しを漬けるので、「梅仕事の月」とも言われています。
ところで、梅干しの消費量が6月に一番多い(※)というのは、ご存知でしょうか。時代は移り変わっても、古くから親しまれている梅干しが、梅雨時に多い食欲不振や食中毒などを防ぐ健康食品だということが知られているからなのです。今やコンビニの店頭を見ても、おにぎりを始め梅味の菓子や飲み物のなんと多いことか。そういう意味では、梅干しは日本人のソウルフードなのかもしれません。

時代は遡って、戦国時代の武将の上杉謙信(※)も、梅干し好きな一人でした。その話に触れる前に、謙信の少し複雑な幼少・青年時代を振り返ってみたいと思います。
謙信は越後(現在の新潟県上越市)の代官として力を持っていた長尾為景の末っ子として誕生します。寅年に生まれたので、幼名が虎千代。父の為景は、兄の晴景に家督を継がそうとしますが、18歳も年上の兄は病弱でおまけに気弱。やがて父が亡くなり、頼りない兄に代わった時には、謙信はまだ弱冠14歳。しかし、父の葬式には鎧兜で参列したという逸話もあり、武将としての片鱗はその頃からありました。そして、ついに謙信は兄の養子となることで、19歳で長尾家の家督を正式に継ぎました。最終的に上杉の姓になるのは、32歳の時。鎌倉幕府の要職にあった上杉憲政の後を継ぎ、上杉政虎となりました。

上杉謙信というと、ライバル武田信玄(※)との5回にわたる川中島合戦を繰り広げたことで有名ですが、3回目までは長尾姓、4~5回が上杉姓を名乗っての戦いであったということになります。
「謙信と梅干し」。病弱の兄を持ったことや、戦に明け暮れる武将として健康には人一倍関心がありました。謙信は大酒飲みとしても有名ですが、肴は決まって梅干し。今で言えば酒で身体が酸性になるのを梅干しが中和することを、実体験からすでに知っていたようです。その効能を自ら実践するだけではなく、梅干しを出陣の際の携帯食として、足軽たちにも持たせていました。主食の副菜として、また喉の渇きを癒すものとしても教えていました。つまり、梅の酸っぱさ(クエン酸)が食中毒などを防ぐ抗菌効果や、整腸作用を持ち、疲労を癒すことも、この時代にすでに理解していたわけです。日々の欠かせない常備食として、兵士たちの安心・安全な健康づくりを気遣ったもてなしのひとつだったと言えそうです。

謙信といえば、塩止めをされた信玄に塩を送った「敵に塩を送る」という逸話で有名ですが、「塩がなくては梅干しも満足に作れず、さぞやお困りだろう」と、考えていたのかも知れません。その頃は戦場に梅干しを携帯することが、武将たちの間でも常識になっていたからです。たとえば大ぶりの梅干し1個(約10グラム)には、約3グラムの塩分が含まれているというほど、梅干しづくりにも塩は重要な材料。そして、戦で流す汗で失う塩分を梅干しで補給していることも、謙信は身を持って知っていたはずです。

一説には、謙信は塩を自ら信玄のところに届けたのではなく、商人が行き来する塩の流通を妨げなかっただけということが真実のようです。つまり、越後の海で作られた塩や海産物は、すでに盆地の甲府の方に届けるルートもできており、その商いを止めなかったということのようです。ほどよい加減を「いい塩梅」と言いますが、まさに健康づくりと人心掌握のおもてなしにもバランスが必要なことを、謙信はその生い立ちからも学んでいたのではないでしょうか。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル

https://oval-design.co.jp/


※「梅干しへの支出」
2人以上の1世帯当たりの梅干しの購入数量を月別(平成19~21年平均)にみると、6月の購入数量が最も多く、1カ月当たり平均購入数量の約1.5倍。世帯主の年齢階級別にみると、年齢が高くなるほど多くなり、年間の梅干しの購入数量も70歳以上の世帯が最も多くなっている。「総務省統計局」「家計調査通信436 号(平成22年6月15日発行)」より
http://www.stat.go.jp/data/kakei/tsushin/pdf/22_6.pdf
「梅の用途別の使用量」
https://www.maff.go.jp/j/heya/kodomo_sodan/0110/08.html

※上杉謙信(1530-1578)
昔の武将は、名前が幼少時代から青年、晩年と変わることが多く、謙信も幼名の虎千代から景虎、政虎、輝虎と変化し、謙信となるのは、晩年に出家してからのこと。兄に代わって城主となった春日山城は、別名鉢峰城とも言われる要塞のような居城。そこから信濃や関東で武田信玄や北条氏康などを相手に70数回の戦に出陣した。信玄との5度に及ぶ川中島の戦いは有名。関東への出陣直前に49歳で急死した。

※武田信玄(1521-1573)
武田信虎の長男。暴君だった父を追放して甲斐(山梨県)の国主となる。信濃の諏訪や伊那などを攻略し、川中島で上杉謙信と数度にわたって戦う。駿河(静岡県)も支配し京都をめざすが、53歳で病死した


参考資料
『名将言行録 現代語訳』岡谷繁実/ 北小路健、中澤惠子訳
(講談社学術文庫)
『戦国武将ものしり事典』奈良本辰也(主婦と生活社)
『時代考証 おもしろ事典』山田順子(実業之日本社)
『越後の龍 謙信と上杉一族』(新人物往来社)
『食物誌』石毛直道他(中央公論社 中公新書)
『戦国武将の居城と暮らし』(新人物往来社)

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