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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 第11話「野点」
景色を味わう、野趣あふれる茶会
五月晴れの頃には陽気も落ち着き、野外の行事が楽しい季節になります。各地の庭園や寺社などで開催されることが多い野点もそのひとつ。茶室を離れて戸外で行われる開放的な野点は、季節の景色をそのまま味わう風流なもので、千利休(※)が九州で豊臣秀吉に供した茶席に始まると言われています。海が見える松原の一角で、潮風に吹かれながら味わう一服の茶。大自然の中で喫する野点の趣向に秀吉は喜び、その後の茶会に取り入れています。今回は、秀吉と利休が野点を楽しんだ初夏のひとときを思い起こしてみたいと思います。
戦国時代に茶の湯が流行した背景には、興奮と緊張が強いられる戦の中で、禅の心にも通じる精神の落ち着きが求められたのでしょう。そして茶の湯は、武士の嗜みのひとつとなりました。利休が初めて九州で野点を行ったのは、天正15年(1587)6月、島津氏征伐後の帰り道でした。すでにその頃には利休は茶頭として、戦場へ赴く秀吉と行動を共にしていました。その意味では、今の野点のような単なる野外での楽しみとは意味合いが少し違い、戦いの合間の気持ちを落ち着かせるような目的があったのかもしれません。
利休の茶道に関する見聞録『南方録』(※)によれば、野点を開くにあたって、次のようなことを語っています。そのひとつ、場所は松の陰か河のほとり、芝生などの清浄な所が良く、亭主も客も清浄な心を保つことが第一であると。ふたつめには、野点には点前、道具とも定法がないからこそ、定法にまさるほどの重い法があるとされています
そして、利休が野点に選んだのが、箱崎の松原(※)でした。しかし、茶室も何もない場所で、利休は一体どのような設えをしたのでしょう。そこで、利休は後に“利休釜掛けの松”と伝えられるようになった松の木を選び、その枝に鎖で雲龍釜と呼ばれる寸胴の茶釜を吊るします。その下の白砂に炉を組み、松葉をかき寄せて湯を沸かし、海から吹き寄せる松風を聞きながら、煙が立ち上る様子を楽しみました。松葉に燻されて沸いた湯で点前をしたことから、以来、野点は「燻べ茶をする」とも言われるようになりました。
茶席では、懐石などの簡素な食事を出しますが、利休はこの松原の黒松の根元に群生するキノコの松露を出したそうです。“和風トリュフ”とも称される、松葉の薫りがする初夏のキノコをどのように調理したのかまではわかりませんが、松原を目でも耳でも舌でも味わいつくす利休の野点の演出を、秀吉が大いに喜んだのは間違いありません。
その後、秀吉は場所を変えて同じような野点を行い、他の茶人にも燻べ茶を出すことを求めて、天下統一の権力を誇示するように次第に華美な茶会を催すようになりました。
利休は野点が、安易な野遊びの趣向になることを戒めましたが、秀吉は同じ年の10月には京都の上京区の北野天満宮で「北野大茶湯」と呼ばれる大茶会を開催します。身分や上下関係も問わず、茶の湯に興味ある者ならだれでも参加できる会として、境内の松林には800以上もの一般参加者の席が設けられました。その中に、直径3メートルもあろうかという大きな赤い傘を立て、秀吉を迎えたのが茶人のノ貫(※)でした。傘はのちには当たり前となった野点の道具ですが、「黄金の茶室」などを設けるような派手好きな秀吉も度肝を抜く演出と評価され、一挙にノ貫は茶人としての評価を得ることになります。
一方、利休は秀吉を喜ばせたかつての風流な野点から、わずか4年後の天正19年(1591)、その秀吉との確執でこの世を去ることになりましたが、派手な茶の湯の流行に対して、あくまで自分の美学の「わび」の世界を貫いた利休の無念さが偲ばれます。
【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル
https://oval-design.co.jp/
※千利休 [1522- 1591]
安土桃山時代の茶人。堺の商家の生まれ。本名は田中与四郎、のち宗易、茶人として利休居士の号を天皇から与えられる。茶の湯を武野紹鷗に学び、千家流を開祖。侘茶の大成者として草庵風の茶室を提案し、朝鮮の茶碗や日常雑器を茶道具に取り入れ、また楽茶碗の制作・指導などを行った。織田信長・豊臣秀吉に仕えたが、のちに秀吉の命により自刃する。
※箱崎の松原
現在の九州大学医学部のキャンパス内(福岡市東区の馬出地区)にある「利休釜掛けの松」が、野点発祥の地とされている。見学は自由で、説明板が立てられている。
http://www.fenet.or.jp/opinion/id/9
※『南方録』
利休の弟子の一人の南坊宗啓が、利休から習った茶道の奥儀や逸話などの見聞を筆録した秘伝書。利休茶道を知る手がかりの文献とされるが、黒田藩(福岡県)の立花実山が書いたという説もある。
※ノ貫(へちかん) [生没年不詳]
安土桃山時代、織田信長と豊臣秀吉時代に活躍した侘茶人。京都の山科の草庵に住み、利休ら茶人との交流もあったが奇行でも知られる。茶釜ひとつで煮炊きするほどの貧しい暮らしぶりなど数々の逸話がある。
参考資料
『利休茶話』(筒井紘一著 学習研究社)
『日本人のこころの言葉 千利休』( 熊倉功夫著 創元社)
『戦国 茶の湯倶楽部─利休からたどる茶の湯の人々』(中村修也著 大修館 書店)
『お茶事』(佐々木三味著 淡交社)
『茶湯一会集・閑夜茶話』(井伊直弼著 岩波文庫)
『現代語でさらりと読む茶の古典 南方録(覚書・滅後)』(筒井紘一著 淡交社)
『日本史のなかの茶道』(谷端昭夫著 淡交社)