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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 「紅葉狩り」第22話

錦秋を楽しみ、秋の実りに備える心を持つ

庭先の紅葉や楓が一段と赤く染まる11月は霜月とよばれ、朝夕の冷え込みが厳しくなりますが、“小春日和”の日中には紅葉狩りには絶好の季節になります。その由来は、中世の宮廷や貴族が和歌を詠んだり、頭に枝を飾る「挿頭(かざし)」※というような優雅な錦秋を楽しむ遊びだったとされ、江戸時代になって一般庶民の間でも行われるようになりました。

江戸周辺では、下谷(台東区)の正燈寺や品川の海妟寺※などが、紅葉狩りの名所とされていました。かの小林一茶もこの二つの寺を訪ねて、「日の暮れの背中淋しき紅葉哉」という句を残しています。

ただ、春の花見に比べて今一つ派手さはなく、人気はなかったようです。そのあたりが、『江戸府内絵本風俗往来』※に「紅葉狩をする者は、詩歌人、書画家、俳句連句の宗匠、医家及び寺僧、御茶道方並びに武家方は40歳以上の士に多し」とあり、少しハイソサエティーな行楽だったようです。

実は、江戸っ子たちは紅葉狩りに別な楽しみがあったようです。それは、正燈寺の近くには吉原が、海妟寺の近くには品川遊郭などがあり、「紅葉狩りにいく」とはその口実だったそうです。

ところで、地方の武士たちは、どのような紅葉狩りをしたのでしょうか。奥会津書房の「いのちの継承―会津の食から―」※によると、会津藩の上級武士たちは、秋の紅葉狩りには鍋や味噌を持参して、山で採ったキノコをその場で煮て食べて胃袋も堪能していたそうです。

山形の方では、この秋の行楽を「芋煮会」といいますが、会津では「茸山」と呼ばれる年中行事。野外で紅葉を見ながら山の幸を味わう鍋を囲むなどは、なんとも微笑ましい紅葉狩りです。山形の方では、「芋煮会」は紅花取引の慰労会や船頭たちの食事会が由来とされているそうですが、「茸山」にもあるように、もともとは収穫祭や紅葉狩りを兼ねた、秋の野外パーティーといったところだったのではないでしょうか。

そして、イチョウの黄葉も美しいものですが、その美しさを鑑賞するだけではなく、実用も兼ねて城の周りに植栽させたのは、加藤清正※です。清正というと、虎退治の逸話が有名ですが、日本の三堅城とされる熊本城を築城し、土木・治水や産業の保護、学問の奨励などに采配を振るった名君。地元では「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれ、今でも親しまれています。

その堅牢な石垣の設計などでも有名な熊本城ですが、別名「銀杏城」とも呼ばれていました。その理由は城の周りに植えたイチョウの樹。清正は、イチョウの実を救荒時の食糧にもなるように、植栽させたといわれ、今でもその中のひとつ(これは雄樹)の大木が残っています。同じように、泰勝院という寺を建てたとき、門前には桜を、寺の後ろには栗の木などの樹木を植えるように指示しています。これも、寺の後ろに植えた木々は薪になり、栗は食糧としての準備のために植栽を指示したとされています。こうして、清正には、美しい景色でもてなす心と同時に、人々の暮らしを見つめる冷静な眼があったのです。

ところで、この熊本城は平成28年(2016)の熊本地震で大きな被害にあいましたが、震災復興のシンボルとして復旧作業が行われ、令和3年(2021)3月に完全復旧しています。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※挿頭
髪や冠に、花や枝、造花などを挿すこと。また、そのもの。植物の生命力を身につけようとすることから始まり、のちに装飾となった。

※正燈寺と海妟寺
正燈寺は、東京都台東区龍泉にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は東陽山。新吉原の裏手にあり、紅葉見物にかこつけ、遊郭にくりこむ例が多かった。海晏寺は、東京都品川区にある臨済宗の寺。本尊は品川沖でかかったサメの腹から出た観音像と伝えられ、品川区「鮫洲(さめず)」の地名の由来となっている。

※『江戸府内絵本風俗往来』
江戸の町の季節の移り変わりや町家・武家の行事などを、絵図を盛り込みながら描いた書籍。菊池貴一郎 (芦乃葉散人) 著、 東陽堂、 明治38年(国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで閲覧可能)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767856
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767857/117

※「いのちの継承 ―会津の食から―」
会津地方の出版や文化交流などを通して情報を発信している「奥会津書房」。そのホームページ上で掲載されている電子出版のひとつ。著者は鈴木真也氏。紹介した内容は「芋煮」から。現在、33の原稿が掲載されている。
http://www.okuaizusyobou.jp/e-shuppan/inoti/vol_09.html

※加藤清正(1562-1611)
安土桃山時代、尾張の武将。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いで「七本槍」といわれた名将の一人。文禄の役・慶長の役で朝鮮に出兵。関ヶ原の戦いでは徳川側につき、肥後一国を与えられた。築城の名手として、熊本城の設計は有名。


参考資料
 熊本城公式ホームページ
https://castle.kumamoto-guide.jp/

『名将言行録 現代語訳』岡谷繁実著(講談社学術文庫)
『日本人なら知っておきたい 江戸の暮らしの春夏秋冬』
(河出書房新社)
『図説江戸5 江戸庶民の娯楽』竹内誠監修(学習研究社)


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