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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 第55話「鰻

グルメ武士を虜にした、鰻の蒲焼き

7月に入ると、「土用の丑の日」の鰻が話題になりはじめます。この月だけに土用※があるのではありませんが、やはり暑さが堪える7月の土用は、スタミナをつける名目で「鰻の蒲焼き」を食べることが多いのが、家計調査※からもうかがわれます。

今年の「土用の丑の日」は7月24日(水)。残念ながら、現在私たちが食べている鰻のほとんどは養殖鰻ですが、鰻の稚魚のシラスウナギの漁獲量も減り、海外産に頼らざるを得ない状況です。鰻は、歴史的にも日本独自の食文化をもたらした魚です。今回は、江戸の近海で獲れた鰻を食べて舌の肥えたグルメ武士の話も交えて、鰻の蒲焼きの変遷を辿ります。

「石麻呂(いしまろ)にわれ物申す 夏痩(なつやせ)に良しといふ物ぞ 武奈伎(むなぎ:鰻)取り食(め)せ」──鰻を夏のスタミナ食として、痩せた友人に勧める和歌がすでに『万葉集』(第16巻)の中に出てきます。

この歌は万葉集の編者としても有名な大伴家持(おおとものやかもち)※が吉田石麻呂という痩せている友人に、夏痩せにいいという鰻でも食べなさいよと軽口をたたいている一首。

そして、身体にいいからといって、鰻を獲るために川に入って流されないようにしなさいと、お節介にも続きの歌まで詠んでいます。
 
この和歌は鰻が文献にあらわれる初出とされていますが、この時代の鰻の調理はぶつ切りにし、串に刺して山椒味噌などをつけて炙るという、炉端焼き風の食べ方だったようです。
 
ところで、「丑の日」になぜ鰻の蒲焼を食べるようになったのでしょうか。それには諸説あり、エレキテルの発明でおなじみの平賀源内が、夏場に客足が落ちた鰻屋から頼まれて、「本日、土用丑の日」と店頭に宣伝の貼り紙をしたこととか、伊勢の津藩主の藤堂高虎(とうどうたかとら)から注文を受けた江戸の鰻屋が調理した鰻の蒲焼が、土用の丑の日に焼いた物だけが色も味もよかったからなど、数え上げたらきりがありません。
 
しかし一番の大きな要因となったのは、江戸時代中期の元禄時代ころに製造が始まった醤油や味醂が流通されるようになり、あの甘辛い独特なタレで串刺しにした鰻を、樺の樹肌の色までにじっくりと焼き上げる調理法が確立されたこと。暑い夏に食欲をそそる香ばしい醤油ダレの匂いは、魅力的なものだったはずです。
 
最初は屋台などから始まった蒲焼きは、専門の料理屋が店を構えるようになると、江戸市中に店の番付が出るほどの鰻人気でした。なかでも得意客だったのは、地方から江戸勤番となって藩邸に勤務する武士たちだったと言われています。

庶民の口に入る手頃な価格だった屋台の鰻ですが、店を構える料理屋になると、中ぐらいの蒲焼きが2串入った一皿が200文(現在の価格で4000円くらい)と高価な食べ物として、当時も贅沢品の扱いになっていたようです。
 
そんな江戸の鰻屋の鰻を食べていたのが、“伊庭の小天狗”の異名のあった伊庭八郎(いばはちろう)※。江戸育ちで、徳川家茂の警備を仰せつかるほどの腕前をもつ剣客でした。元治元年(1864)正月、八郎は弱冠21歳で江戸から海路で京都入りする家茂の護衛に同行します。
 
無事、京都入りした八郎は護衛の仕事が一段落すると、京都観光に繰り出します。北野天満宮や金閣寺を見物した後、近くの澤甚という鰻屋で食事をして、“都一番の味”と大満足する様子が日記に記されています。

しかし、別の日に下鴨神社に参拝した後に、萬屋吉兵衛という鰻屋で夕食をとったときは、「金串の鰻で味が悪かった」という評価。竹串に刺して焼いた江戸前の鰻しか知らない八郎にとっては、金串は奇異に映ったことからの辛口評価になったのでしょう。

鰻を刺す竹串と金串のように、関西と関東の鰻の蒲焼きの調理法は違い、関西は腹開き、関東は武士が多い町だからか腹からさばくのを忌み嫌って背開きにし、白焼きのあと蒸してタレをつけてから本焼きするなど調理法が違います。
 
いずれにしても慣れ親しんだ江戸前の鰻と比較しながらも、自身をもてなす京都のグルメ出張を楽しんだ八郎。その後、時代が変わる幕末の箱館の戦いで弱冠26歳の命が散る前の、思い出づくりの旅だったのかもしれません。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※土用
一年に4回あり、陰暦でそれぞれ立春・立夏・立秋・立冬の前の18日間をいう。立秋前の夏の土用の丑の日には、鰻を食べるとよいとされてきた。

※家計調査
総務省統計局の「家計調査通信第533号(平成30年7月15日発行)」によると、2017年の7月の土用の丑の日の鰻に払う支出額(外食などを除く)は、年間の鰻に対する支出額の37.3%。ちなみに鰻の年間支出額が多いのは、浜松市、京都市、大津市がベスト3とか。
https://www.stat.go.p/data/kakei/tsushin/pdf/30_7.pdf
上記は、少し古いデータなので、政府統計の資料を閲覧する下記のサイトなども見てみると面白いでしょう。
https://www.e-stat.go.jp/
うなぎの蒲焼きを好んで食べる年齢層は、若い人より60代以上の高齢者が多いことなどがわかります。

※大伴家持[718-785ころ]
奈良時代末の代表的歌人。三十六歌仙の一人。地方・中央の諸官を歴任。万葉集の編纂者の一人とされ、歌数も最も多い。

※伊庭八郎[1843 - 1869]
幕末の剣術家。心形刀流8代伊庭軍兵衛秀業の長男で若くして剣術に優れ、また学問の素養もあった。美男と豪勇で名が高く、幕府の武芸練習場から城内の奥詰勤務となり、将軍の護衛役として京坂に出かける。鳥羽・伏見の戦いで負傷、箱根山崎の戦いで左腕を失うが箱館戦争でも戦を続け、明治2年(1869)に自死。


参考資料
『丑鰻考』(遠山英志著 文芸協会出版)
『幕末武士の京都グルメ日記「伊庭八郎征西日記を読む」』(山村竜也著 幻冬舎新書)
『ウナギの博物誌- 謎多き生物の生態から文化まで』(黒木真理編 化学同人)
『江戸の食文化』(原田信男編 小学館)
『食べ物日本史総覧』(吉成勇著 新人物往来社)


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