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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 第9話「一芸」

厳しい武士社会を潤した、教養や嗜み

陰暦4月の異称のひとつが「得鳥羽月(えとりはねのつき)」。その心は、嘴の黄色いひな鳥たちが羽ばたく季節ということからきているようです。親元を離れ、一人暮らしを始めた新入社員も多いことでしょう。

その昔、戦国時代や江戸時代に生きた侍たちも同じでした。江戸には、一説には10人に1人が参勤交代などで単身住まいを強いられ、その暮らしは大変だったようです。しかも、仕事以外の趣味や教養が今よりも重要なものとされ、その才覚が求められていました。

武士社会でも「芸は身を助く」と、宴会で一曲歌って踊れる侍や、手際よく料理ができる“料理侍”などの「一芸」を持つことが重要視され、その後の道も拓かれたというのが今回のお話です。

馬術、弓術、剣術、砲術など武術の大切さと同時に、鷹狩り、鵜飼い、釣りや和歌・連歌、乱舞(能の仕舞)や手猿楽、立花なども武士として欠かすことのできない嗜みとして『伊勢守心得書』で説いたのは、戦国時代に活躍した薩摩の島津藩家老の上井覚兼(※)です。

例えば、そのなかで『古今和歌集』をマスターすることや、手紙を書くときの「書札礼」という心得などの大切さを記しています。千百首もある『古今和歌集』を学ぶことは、平安時代から続いてきた嗜みとして、連歌を作るときに役立たせていたのでしょう。「書札礼」は「時候のあいさつ」などのひな形の文例集も作られており、昔も今も変わらずに受け継がれてきたことがわかります。

また、立花はいけ花のこと。今でこそ女性の趣味のように扱われますが、江戸時代は“だんな芸”として男性が茶の湯とともに嗜んだもの。江戸時代初期のいけ花の名手として知られる僧侶の池坊専好が、武士の家に招かれて伝授したのが始まりとされています。

一方、乱舞は宴席などで能の謡の一節などを軽く舞うこと。「手猿楽」は素人が演じる能のことを指します。こうした武家の芸能は、もっぱら宴席で行われ、家康も若いときから能に親しんでいたそうです。なかには傷ついた能役者を助けたことから芸の指導を受けて、専門の能役者以上の演活動をするようになった代官職の下間少進(※)などの武士も出ています。

このほか「早歌」や「宴曲」といった七五調の歌謡を披露することも行われました。一節は一人で謡い、続いてはみんなで唱和したのだとか。こうしてみると、カラオケ屋で楽しみながらも接待するビジネスマンたちの現在の姿と大差ないようです。

武士の嗜みの究極なるものに「包丁」を挙げたのは、室町時代に『宗五大草紙』(※)を書いた伊勢貞頼です。包丁とは料理のことで、客を招いたときに主人が自ら包丁で魚や鳥をさばいて調理をして出すことが最高の饗応の形とされました。ここから、武士などが人前で料理を披露する「四条流包丁」などの流儀である奥義が生まれたわけです。その背景には主人が自ら料理人として作る料理は、毒などが入る余地がなく、今でいう安心・安全なパフォーマンスであると同時に、当時は天皇や将軍などの限られた人たちだけしか食べられなかった、貴重な食材の鶴や雉などの鳥料理をふるまう機会にもなりました。

そのために、使う道具も衣服も特別なものを揃え、『身自鏡』(※)を書いた玉木吉保のように、料理を習う武士も出ています。ある意味でそうした才能を身につけた1人の細川幽斎(※)は歌人で、信長、秀吉、家康の3人に仕えた武将としての一方で、包丁使いの達人として一目置かれ、魚の下に敷いた紙を切らずに目の前で見事にさばき、得意な鯉料理をふるまったといわれています。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル
https://oval-design.co.jp/


※上井覚兼 [1545‐1589]
島津義久に仕えて天正4年(1576)に家老になり、その4年後に宮崎城主となる。義久が豊臣秀吉に降伏すると出家した。文筆にも秀でて『上井覚兼日記』を記す。和歌や茶の湯などに通じて『伊勢守心得書』と題する自叙伝風の1冊を残している。

※下間少進 [1551‐1616]
下間家は本願寺譜代の家臣で、本願寺支配下の加賀・越前両国の代官職であった。金春流の太夫である岌連(ぎゅうれん)を看護したことから金春流の秘曲を伝授された。能役者顔負けの活躍をし、約30年間に1200番近い能を演じて豊臣秀吉・秀次、徳川家康らの寵遇を受けた。

※『宗五大草紙』
大永8年(1528)、伊勢貞頼(貞仍、宗五とも)が74歳のときに、息子に書き残した武家奉公人の心得や諸作法などを記した書物。

※『身自鏡』
元和3年(1617)に出された、毛利家の家臣の玉木土佐守吉保(1552‐1633)の自叙伝。地方武士の生活が体験に基づいて詳しく記されている。

※細川幽斎[1534‐1610]
安土桃山時代の武将・歌人。本名は藤孝。足利義晴、義輝、義昭に仕えた後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた。歌人としても有名で、『百人一首抄』など広く教養に通じた文化人であった。


参考資料
『戦国の群像』(小和田哲男著 学研新書)
『日本風俗史事典』(日本風俗史学会編 弘文堂)
『週刊朝日百科 117世界の食べ物 日本編 古代・中世の食事』(朝日新 聞社)
『江戸の備忘録』(磯田道史著 朝日新聞出版)
『隠居大名の江戸暮らし』(江後廸子著 吉川弘文館)



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