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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 第56話「和蝋燭」

偲ぶ心を託した、炎の贈り物

8月は、夏休みと旧盆を兼ねて帰省する方も多い季節です。
「御仏はさびしき盆とおぼすらん」(一茶)とは、火事で焼け出されて友人宅に身を寄せることになった65歳の小林一茶が、お盆に墓参りに行けない心情を吐露した一句。

墓前や仏壇の前で、亡くなった家族や先祖を供養するお盆の行事は、地域や宗派による違いはあっても、その思いは変わりません。その時に灯す蠟燭(ろうそく)は、お線香に火をつけるためだけではなく、「私たち子孫はここに居りますよ」という、道しるべみたいなものだという説もあります。

庶民がお盆の行事を行うようになったのは、和蠟燭※の国内製造の技術進歩が、少なからず影響したとされています。今回は、武士の間でも高価な贈答品だったという、和蠟燭についてのお話です。
 
日本で蠟燭が使われ始めたのは、奈良から平安時代のころ。主に中国から入ってきた蜜蜂の巣が原料の蜜蠟燭というもので、寺院や貴族など限られた職位の人しか用いることができませんでした。

国産のハゼやウルシの実などから和蠟燭が作られるようになったのは、16世紀の室町時代あたり。永正8年(1511)の『家中竹馬記』※には、すでに和蠟燭の「芯切り」の方法が記載されています。和蠟燭は現在私たちが使っている洋蠟燭と違って、真ん中の藺草(いぐさ)と和紙でつくる芯が燃え残るため、そのままにしておくと炎が暗くなり、芯の燃えカスに火がつくなどの危険性があり、定期的にハサミなどで芯を切り返すことが必要です。

国産の和蠟燭が完成したとはいっても、当時はまだ貴重品扱いでした。その様子がわかる慶長時代(1596–1615)の中ごろの逸話に、徳川家康の“蠟燭つけっぱなし事件”があります。家康が鷹狩に出掛けた際に、家老が家康から頼まれた何かを御座所付近で探すために蠟燭を家臣に灯させたところ、用事が済んでも消さなかったため、今でいう火元管理責任者の御目付役に家臣がきついお叱りを受けたというもの。
 
その和蠟燭の価格は、承応元年(1652)あたりの十目掛(じゅうめがけ;約37.5g)くらいの一本は、当時の職人の日当ほどの高価なものでした。いかにも吝嗇家(りんしょくか)だったとされる家康らしい経済感覚からの事件ともいえますが、それは芯切りを怠ることでの火事を危惧した警告だったのかもしれません。

当初は、主産地だった会津(福島)、越後(新潟県)出羽(山形県、秋田県)などから取り寄せた高価な和蠟燭は、将軍への献上品として、また武家の贈答品や結納品として使われていました。
 
そして、末娘の結納品に桁はずれな3000本という越後の和蠟燭を贈ったのが、武田信玄です。永禄10年(1567)に、武田信玄と織田信長が親戚になるという、今でいえば“世紀の婚約”をしたのが、織田信長の息子である当時11歳の奇妙丸(きみょうまる、)※と、武田信玄の末娘の松姫(当時7歳)※です。同年12月中旬に信長が結納の品として多くの酒樽や酒肴のほか、松姫に贈ったのは、さまざまな種類の反物各100反、銭1000貫、帯が300本。

これに対して、信玄は信長側に翌永禄11年(1568)6月に、和蠟燭3000本をはじめ、漆1000桶、熊の毛皮1000枚、馬11頭、奇妙丸には名刀の脇差や太刀などを贈りました。こうして贈り合ったものは、2人の華燭の宴を彩り、招待客をもてなすはずでしたが、間もなく同盟関係が破たんして、この政略結婚は破談になります。

その後、22歳にして父の信玄や兄たちの死を知ると同時に、織田家から追われる身となった松姫は、武田家滅亡の現実を冷静に受けとめます。松姫は幼い3人の異母姉妹の姫たちを連れて脱出し、髪を下ろして信松院として尼となり、現在の八王子に自身の名前と同じ寺を設けます。

尼として武田家の供養をするだけでなく、養蚕や機織り、染色の仕事で生計を立て、周囲の人々にその技術を教えました。信松院が灯す蠟燭の炎の周りには、おそらくいつも人々の輪ができていたのではないでしょうか。

【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル


※和蠟燭
ハゼやウルシの木の実を砕き、油を絞って木蠟(もくろう)を作り、それを和紙や灯心草(藺草など)を芯にしたものに塗り重ねて作った植物性の蠟燭。福島や愛知、福井、京都や愛媛などの工芸品として伝わる。これに対して、洋蠟燭といわれる現在の蠟燭は、石油系のパラフィン蠟などを用いる糸芯入りのもの。明治以後に和蠟燭に代わって急速に普及した。

※『家中竹馬記』
室町時代後期の武将・歌人の斎藤利綱(1454 - ?)が永正8年(1511)に著した書物。内容は鎌倉時代の武士の暮らしやしきたりなどを記したもの。

※奇妙丸【1557 - 1582】
織田信長の長男の織田信忠。奇妙丸は幼名。松姫と11歳の時に婚約するが、信玄と信長の同盟破綻により、天正4年(1576)に岐阜城主となり、天正10年(1582)には武田攻めのリーダーとして武田勝頼などを討ったが、同年6月、本能寺の変により、二条城に明智光秀の包囲を受けて26歳で自刃する。

※松姫【1561 - 1616】
武田信玄の末娘。織田信忠と婚約するが破談となり、その後剃髪する。天正10年織田軍に攻められて武蔵の八王子にのがれる。養蚕や機織業の基礎をつくったとされ、「八王子の織物の母」とも称される。56歳で死去。現在は「松姫マッピー」として八王子市のゆるキャラにもなっている。


参考資料
『疾風に折れぬ花あり』(中村彰彦著 PHP)
『あかりの大研究』(深光富士男著 PHP)
『木と日本人③葉や花、実と種』(吉成勇著 新人物往来社)
『ものと人間の文化史 50 燈用植物』(深津 正著 法政大学出版局)
『伝統の美と技 和ろうそくの世界』(大石 孔他著 文葉社)



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