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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 「お年玉」 第27話
新年に良き運を呼び寄せる末広扇
正月は古い一年が終わり、また新しい一年が始まる再生を願う月。「睦月」ともいわれますが、農耕民族だった祖先が稲作の種籾の準備を始めた「実月」がなまったとされています。この時期に行う行事と門松や鏡餅などさまざまな正月飾りも、農耕の神様である年神(歳神)様を家に招くためのおもてなしです。
お年玉の慣習は室町時代から始まったとされていますが、そのころは金銭ではなくお餅をはじめとした品物が中心。なかでも武士に人気があったのが扇子でした。扇子はその形から、末広がりにも通じる縁起物とされ、その語源の「扇ぐ(あおぐ)」本来の機能以外に、冠婚葬祭の儀式や茶の湯、芸能などさまざまな場面で携帯することが多い必需品でした。
年賀に向かう武士たちが行き交う正月の通りでは、「扇子売り」が忙しく商売をしていたそうです。
そんな新春の江戸の街を描いた『東都歳事記』※の挿絵の一枚には、年賀に来訪した裃姿の武士が描かれ、衝立の近くには、お年玉の扇子を入れた箱が見えます。城や屋敷の主に年賀の挨拶をして、お年玉の扇子を直接もらえるのは、おそらく位が上の武士たちで、その他大勢の下級武士は玄関先で記帳をし、用意された扇子をいただいてきたのでしょうか。
年賀客の多いお屋敷では、その羽ぶりの良さを誇るように、年賀客に渡す扇子を玄関先に積み上げていたそうです。
武士たちは「軍扇」として、戦にも扇子を携えていきましたが、どのように使ったのでしょうか。それを象徴するのが、毛利元就(もうりもとなり)※の「日の丸扇」のエピソードです。奇襲攻撃で勝利を勝ち取った厳島(いくつしま)の戦い※で使った扇は、金色の表面に「太陽」を表す日の丸が描かれ、銀色の裏面には「月」を表す三日月が描かれていました。
武将が采配を振るう時に、信心している軍神の力を「扇ぎ寄せる」拠り所として大切にしていました。また、その軍扇を使う作法もありました。
通常は昼間は太陽の表面を出し、夜には月の面を出した軍扇で部下たちに指令を出しました。その際は扇の骨を6本数えたところで畳み、全開せずに使いました。なぜ6なのかは不明ですが、6は「無患子(植物のムクロジ)」や「六瓢(無病)」など「無」に通じるところから、災いを無にするとして、こだわったのではと考えられます。
戦には易学ができる軍師などを同行させ、戦の行く末を占わせることも多かったそうです。しかし、最後は自分で決断しなくてはなりません。厳島の戦いで、出陣の時を占った軍師に、「この日に戦をするのは悪日で、ふさわしくない」と、伝えられた元就はどうしたのでしょうか。
元就は扇の作法をあえて「悪日に合戦をする時は、ひるは月の方を面へなしてつかふべし。よるは日のかたを面へなしてつかふべし」と逆手にとり、悪日とされた日の夜に出陣して勝利をおさめたのでした。
縁起をかつぐ作法に倣うだけでなく、時にはそれを自ら逆手にとって運を呼び寄せる采配も、部下や民の上に立つ武将の度量だったといえましょう。
【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル
※『東都歳事記』
江戸時代後期の挿絵入りの年中行事書。天保9年(1838)刊。斎藤月岑(げっしん)編著。江戸とその近郊の民間・武家の年中行事を長谷川雪旦・雪堤父子の挿絵入りで月日順に紹介したもの。
※毛利元就(1497-1571)
戦国時代の武将。中国地方の大名として陶晴賢・大内義長・尼子義久らを滅ぼし、山陰・山陽10カ国を領有する戦国大名となった。智略に優れた知将として知られ、隆元ら3人の息子たちに結束の大切さを説いた「三本の矢」の教えは有名。
※厳島の戦い
1555年(弘治1)9月末日の暴風雨の夜、4000人余の毛利元就軍が二手に分かれて安芸国(広島県)厳島に軍を進め、攻撃してきた2万人の陶晴賢(すえはるかた)軍に大勝した戦い。
参考資料
『戦国時代なるほど事典』川口素生著(PHP 文庫)
『呪術と占星の戦国史』小和田哲男著(新潮選書)
『日本人のくらし「基本のき」』廣瀬輝子著(メディアパル)
『歳時の文化事典』五十嵐謙吉著(八坂書房)
『ヴィジュアル百科 江戸事情 第一巻生活編』(雄山閣出版)
『江戸の暮らしの春夏秋冬』歴史の謎を探る会(河出書房新社)
『京の宝づくし 縁起物』岩上力著(光村推古書院)