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ビジネス歳時記 武士のおもてなし 「富士山」 第26話
富士山に助けられ、その力で天下を取った家康
新年に仰ぎ見る初富士。「富士は日本一の山~♪」(文部省唱歌)と歌われるように、雪をまとった富士山の美しさに心があらたまるのは今も昔も同じです。富士山といえば、初夢に見ると縁起の良いとされる「一富士二鷹三茄子」という慣用句があります。
これは、徳川家康の故郷の駿河(静岡)名物を順に並べたものともいわれ、地元から眺めた富士山、鷹狩の鷹、当時は栽培が難しく高価だった茄子を並べたもの。すでに幼少の頃に「自分の言葉を持たない物真似鳥は嫌いだ」と言い放ち、数々の名言を残した家康らしい、その後の天下取りを予言するような名フレーズかもしれません。
そして「富士山に一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿」という句もありますが、ここには富士山の魅力はダイナミックな円錐形に雪帽子という美しいシルエットだけれど、高さのある活火山であるだけに軽い気持ちで登山するものではないという戒めが込められています。今でこそ、シーズン中は5合目まで車で入り、老若男女が登山できる山になっていますが、江戸時代後期までは誰でも登れるわけではなく、しかも女人禁制の山でした。今回は、この富士山にまつわるお話です。
昨年の富士山の登山者数は約16万人(夏の約2カ月の開山期間)。コロナ禍の2021年には約7万人強と激減したときを思えば、少しずつ、またその数が回復してきているようです。まさに日本を代表する観光地としての富士山ですが、昔は山岳信仰や太陽信仰とともに修験者たちが修行に励んだ信仰の山でした。
記録に残る富士登山者は、平安時代の長承元年(1132)に僧侶の末代が登ったのが最初で、のちに大日堂という祠も建立しました。その後、16世紀に入り長谷川角行※という行者が、富士登山を通して富士信仰を広めました。角行は、富士山にある洞窟の中で、その名前の由来にもなった角材の上に爪先で立ち続ける「千日の行」をなし終えた偉業でも知られました。その人気から、のちに富士山に参詣したり、寄進をする「富士講」という信仰団体が江戸を中心に組織化されるようになります。
ところで、天正10年(1582)、まさに角行が富士山の洞窟で修行をしているときに、出会った武将がいました。甲州征伐の途中、武田軍から一時逃がれてきた徳川家康でした。角行は家康に驚くことなく、洞窟にかくまったという伝説が伝わっています。洞窟の入り口に、角行の霊験を受けてか無数の蜘蛛が直ちに巣をかけたので、人はいないと判断して追手は引き返したそうです。家康は角行から受けた恩を忘れずに、江戸市内での布教活動を庇護したとされています。
また、のちに家康は洞窟で角行から「天下を治める」と予言された通り、慶長8年(1603)に江戸幕府を開きました。当時、江戸から西に見える富士山を動かないランドマークとし、東に筑波山、北に日光連山と結んだ先に江戸城を構えたといわれています。
角行の後からも富士登山を通して信仰を説く富士講の指導者が育ち、なかでも商人から修験者となった食行身禄※の時代には、参勤交代などで江戸の街道も整い交通網も発達してきました。しかし、まだ富士登山は女人禁制だったので、1合目か2合目のあたりまでしか登れませんでした。
そこで登場したのが富士塚※です。安永8年(1779)に身禄の直弟子の高田藤四郎が、江戸の高田(現在の新宿区戸塚)に「高田富士」として、富士山の溶岩を運び入れて富士塚をつくったのが最初です。これにより婦女子でも登れる身近な富士山として一挙に富士講の信者が増え、富士登山を極めた修験者によって各地に富士塚がつくられました。
女性も手軽に登ることができたテーマパークのような“ミニ富士山”の富士塚が、東京都内には70基、関東周辺には300基以上もあったといわれ、都内で最古の「鳩はとの森八幡神社」※の富士塚など、現存するものも数多くあります。新年、こうした富士登山の歴史を辿りながら、冬でも富士登山ができる富士塚のある神社※を参拝するのはいかがでしょうか。
【監修】
企画・構成 和文化ラボ
東京のグラフィックデザインオフィス 株式会社オーバル
※富士山の登山者数
環境省
2022年夏期の富士山登山者数について
https://kanto.env.go.jp/press_00008.html
※長谷川角行 (はせがわかくぎょう)[1541-1646]
江戸前期の宗教家、富士信仰の行者であり、富士講の開祖。富士山の洞窟で苦行を成し遂げ、各地で修行を重ねた。天下太平、人々の病気治療を中心に布教活動を行う。正保3年(1646)、富士山中の洞窟に生きながらミイラ化する即身仏となって死去したとされる。
※食行身禄(じきぎょう みろく)[1671- 1733]
江戸時代前期~中期の富士講の指導者。富士講身禄派の祖と呼ばれる。
※富士塚
江戸時代に多くつくられた一種の民間信仰遺跡。富士山を信仰する講という組織により築かれた富士山の形を模した塚。文化・文政期(1804-1830)ころに盛んになった。
※鳩森八幡神社(はとのもりはちまんじんじゃ)
東京都渋谷区千駄ヶ谷にある貞観2年(860)創基の神社。通称「千駄ヶ谷の富士塚」といわれる都指定有形民俗文化財の富士塚がある。
https://www.hatonomori-shrine.or.jp/
※富士塚のある神社
美術家で富士塚の調査をしている有坂蓉子さんのブログ。富士塚を紹介する書籍も数多
く出版している。
https://hibiscusfujizzz.blog.shinobi.jp/
参考資料
『古くて新しいお江戸パワースポット 富士塚ゆる散歩』
(有坂蓉子著 講談社)
『富士山歴史散歩』( 遠藤秀男著 羽衣出版)
『日本人はなぜ富士山を求めるのか 富士講と山岳信仰の原点』
(島田裕巳著 徳間書店)
『富士山コスモロジー』(藤原成一著 青弓社)
『日本風俗史事典』(日本風俗史学会 弘文堂)
『愛蔵版 戦国名将一日一言』(童門冬二著 PHP 出版)