中世の残照を求めて草津下笠へ(滋賀県)(第2稿)
小幡川は「おばた」と呼んで「おばたかわ」とはいわなかった。夷川は「えべすがわ」と呼んでいたが正しくは「えびすがわ」でしょう。現在、「えべすがわ」は道路・用水路となり一部分しか判りません。「伊佐々川は田の整備された頃からいっています?それまでは『おばた』では。」(以上の情報は、城中・小幡川・夷川の位置を含め、下笠氏から得ました。記して謝意を表します。川端59「城域」も参照しました)
【画像提供】OpenStreetMap http://www.openstreetmap ...
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本稿は初め「goo blog」で投稿していましたが、「goo blog」は字数制限があり、3部「その1」「その2」「その3」に分けないと投稿不能でした。その後「note」というSNSを知り、拙稿にはこれの方が使い勝手が良いことが分かりました。
「goo blog」では、閲覧数が 94 に達していましたが、2024年6月25日付で「note」で投稿します。よろしくお願いします。
目次
まえがき
第1章 下笠の老杉神社
第2章 下笠城主と戦国時代
第3章 戦国時代の室町幕府足利将軍 ―8代から15代まで
第4章 佐々木(佐々木六角)氏
第1節 六角氏の祖、京極氏の祖
第2節 六角氏 ―12代から16代まで
第3節 戦国時代の六角氏
1 第12代六角高頼の時代-50年間にわたる波乱の星霜
2 第13代六角氏綱の時代-将軍に忠誠
3 第14代六角定頼-将軍に忠誠
4 第15代六角義賢(法名・承禎)の時代
5 第16代六角義治の時代
第5章 下笠
第1節 下笠城のあった城中
第2節 下笠氏来歴
第3節 下笠城主
第4節 市場・寺内・北出・・・
第5節 下笠の3寺院
終章 ウォーキングを終えて
注釈
参照文献
付録―地図4点
著者紹介
まえがき
草津市はこの半世紀間に急激に市街化が進みました。わたしは40年ほど前(1984年頃)に当市へ転入しまし、すぐに昭文社の地図「草津市 守山市 栗東・野洲・中主町」(昭和60年[1985年]7月)を購入しました。それを開きますと、草津駅西口に隣接して綾羽工業と綾羽工業社宅が描かれています。同社の南側には会社と並行する形で道路があり、その道路は会社の西端で途切れています。これがいまでは琵琶湖にまで延長され、「びわこ通り」という名で駅西側のメイン道路になっています。この道路に沿う形で、農地であった地域が、商店や新興住宅に取って代わられ、綾羽工業の跡地には大スーパーなどが進出していますし、1994年(平成6年)にJR南草津駅の新設と立命館大学びわこ・くさつキャンパスの開設があり、駅周辺は高層マンションの林立状態で、街の様相は一変しました。
草津駅西口を出ますと西大路町で、びわこ通りがあり、琵琶湖に通じています。駅前から西進しますと西大路町のとなりが野村町、ついで上笠町(カミガサチョウ)、下笠町(シモガサチョウ)となります。市街化の波は上笠町にまで及んでいますが、下笠町となると、びわこ道路沿いと弾正池(ダンジョウイケ)あとの弾正公園周辺は別として、まだ“若干”という程度でしょう。
本稿は下笠にかかわる報告です。中世の一時期、下笠は商工業が栄え、城を築き、武士団を抱える活気のある村でした。その記録は、卓越した郷土史家・川端善二氏の著書『ふるさと笠縫』で見事に描写されています。本ブログは、この高著に導かれて書いたものです。目的は二つあります。一つは、下笠馬場町を散策していますとき、土地の人に「お城はどこにあったのですか」と尋ねますと、「お城?知りませんなぁ」の連発でした。無理もありません。下笠城址は地図にもありませんし、お城のあった「城中」という地域がどこを指すのかを知る明確な術もないのです。当時からすでに600年余が経過し、人々はもはや城郭時代を想起する機会が無くなったということでしょう。郷土史に関心を抱く筆者には残念に思えるのです。ゆえに、下笠の輝かしい歴史をブログで記し、広く人々の興味を喚起しよう、と。もう一つの目的は、そのとき以来の集落名と思われます「城中(シロナカ)、市場(イチバ)、寺内(ジナイ)、小屋場・・・」といった歴史的な小字名が、昭和30年の住居表示変更後、使用されなくなり、「大字下笠~小字~」が、現在では「下笠町~番地」となっているのです(注1.―「注1.」は本ブログの掉尾に載せた「注釈」を参照せよの意;以下同)。間もなくこれらの由緒ある名称は忘却されていくことでしょう。人間の歴史的な営みや、歴史的建造物、遺跡、遺構等に関心を寄せる筆者には何かしら喪失感を覚えます。だからSNSで発信しよう、と。
第1章 下笠・老杉神社
2024年3月のある温かい日、日課のウォーキングで下笠町へ出かけました。この日は普段とは異なり、郷土史家・川端善二氏の著書『ふるさと笠縫』に導かれてです。
町の北端に老杉(オイスギ)神社があります。この神社は奈良時代(701-760年頃)の704年の創建です。その後、平安時代(842-1191頃)を経て、鎌倉時代(1192-1336頃)の「安貞[アンテイー筆者注]元年(1227年)、鎌倉幕府に仕えていた佐々木信綱が承久の変」の恩賞で「栗太郡北部(笠縫全体を含む)」を領しています(川端8―「川端8」は川端善二著『ふるさと笠縫』8頁の意味;以下同)。その後どのような変遷をたどったのか分かりませんが、当地は「文永年間」(1264-1275)に「奈良興福寺領」となり(川端8)、「笠庄(カサノショウ)」という「興福寺の荘園」になっています(注2)。こんにち老杉神社周辺の人たちは、当地を「下笠馬場町(バンバチョウ)」と呼び、下笠城の馬場のあったところです。下記地図右上に「馬場」とあるのが「下笠馬場町」で、老杉神社の位置は⛩の記号で示されています。
第2章 下笠城主と戦国時代
筆者は新史料の発見で、下笠氏の築城年を「室町時代の1380年代」と見ています(これについては別稿「#新説・草津下笠城の築城年」を参照してください)。ゆえに、下笠氏の出現時期は「室町時代の1380年代」か、それ以前でありましょう。史料不足で断定はできませんが、下笠城主の初代は下笠中将権左衛門、第二代は下笠美濃守源高賀と思われます。この第二代下笠美濃守は享徳(キョウトク)元年(1452)に老杉神社の本殿を造営しています。そして下笠城の最後の城主は下笠三郎左衛門弼實(スケザネ?)で、永禄(エイロク)11年(1568)、青地城主と戦って敗れ城は消滅しました。この間の応仁元年(1467)に「応仁の乱」が勃発、室町幕府は戦国時代(1467-1568)に突入し、上記下笠城の落城年の9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始し、戦国時代は終焉します(注3)。
つまり下笠氏の活動期の多くは戦国時代に属したのです。その間に、室町幕府は8人の将軍が登場しています。その名を第3章で挙げておきましょう。
第3章 戦国時代の室町幕府足利将軍(8代から15代まで)
(出典:ウィキペディア)
① 8代将軍足利義政
文安6年4月29日-文明5年12月19日(1449年5月21日-1473年1月7日)。在位期間24年8か月。
応仁の乱、そして戦国時代へ
8代将軍足利義政治世に、応仁の乱(応仁元年1467年5月26日-文明9
年1477年11月20日)が勃発します。幕府管領家の畠山氏と斯波氏の家督
争いに端を発し、足利将軍家の後継者問題も絡み、明応2年1493)、幕
政の中心であった細川勝元と山名宗全の二大有力守護大名の抗争に発展
する。幕府勢力は、西軍(大将・山名宗全)と東軍(大将・細川勝元)
に分かれ、戦いは領国にも拡大する大乱となり、11年間に及んだ。
『栗太郡志』いわく、「應仁文明の亂以後社会の秩序亂れ殺伐の氣、
不倫の風、上下を[一字不明―筆者注]く、骨肉の親干戈[かんか;武
器の意-筆者注]を執(と)りて戰ひ、同族の間併呑[へいどん;他者を
自分の勢力下に入れること-筆者注]を欲」し、「人を斬るの惨事を大
根を切るよりも安きてふ行爲さへ續出したり」(1栗太460-61、451)。
幕府は六角氏を始め、西軍(山名方)に属した守護大名をいっせいに
罷免し守護職を剥奪し、それぞれ別の守護を補佐しました。応仁の乱
中だけでも、西軍(山名方)東軍(細川方)にかかわらず6人の守護を
相次いで補任するという頻繁な人事異動を行っています(1草津史586-
87、592-93)。世は戦国時代になったのです。
② 9代将軍足利義尚(ヨシヒサ)
文明5年12月19日-長享3年3月26日(1473年1月7日-1489年4月26日)在位期間15年4か月。
空 位
長享3年3月26日-延徳2年7月4日(1489年4月26日-1490年7月21日)期間1年3か月。
③ 10代将軍足利義材(ヨシキ)
のちの義稙(ヨシタネ)。延徳2年7月5日-明応2年6月29日(1490年7月22日-1493年8月11日)在位期間3年。父は第8代将軍「足利義政」の異母弟「足利義視」(ヨシミ)。母は義政の正室「日野富子」の妹の「日野良子」。明応2年(1493)、幕府管領の「細川政元」と伯母「日野富子」らの策謀で幕府から追放さる。義材は、将軍職を追われ、逃亡中の明応7年(1498年)、義尹(ヨシタダ)と改名。
空 位
明応2年6月30日-明応3年12月26日(1493年8月12日-1495年1月22日)期間:1年5か月。
④ 11代将軍足利義澄(ヨシズミ)
明応3年12月27日-永正[エイショウ]5年4月16日(1494年1月23日-1508年5月15日)在位期間13年4か月。足利本家を分裂させるきっかけとなった「明応の政変」で幕府管領に擁立され、第10代将軍足利義材を追放して将軍の座を獲得。
⑤ 10代(再)足利義稙(ヨシタネ)
10代義材と同人物。永正(エイショウ)5年7 月1日-大永元年12月25日(1508年7月28日-1521年1月22日)。在位期間13年6か月。足利義材は、将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)、義尹(ヨシタダ)と改名。管領・細川政元の死後の永正10年(1513)、「足利義稙」と改名して将軍職に復帰。
⑥ 12代将軍足利義晴(ヨシハル)
大永元年12月25日-天文15年12月20日(1521年1月22日-1546年1月11日)在位期間25年。
⑦ 13代将軍足利義輝(ヨシテル)
天文15年12月20日-永禄8年5月19日(1546年1月11日-1565年6月17日)在位期間18年5か月。
空 位
永禄8年5月20日-永禄11年2月7日(1565年6月18日-1568年3月5日)期間:2年9か月。
⑧ 14代将軍足利義栄(ヨシヒデ)
永禄11年2月8日-同年9月末(1568年3月6日-同年10月?)在位期間8か月。
織田信長、足利義昭を奉じて上洛する。この時期が戦国時代終焉とみられ
ています。
⑨ 15代将軍足利義昭(ヨシアキ)
永禄11年10月18日-天正16年1月13日(1568年11月7日-1588年2月9日)。在位期間19年3か月。1568年10月、10月18日、義昭は朝廷から将軍宣下を受けて、室町幕府の第15代将軍に就任。1573年、織田信長、将軍足利義昭を京より追放、室町幕府滅亡。
第4章 佐々木(佐々木六角)氏
第1節 六角氏と京極氏の祖
佐々木氏は宇多天皇血流の子孫で、近江国蒲生郡佐々木荘を発祥地とする武士です(ウィキ「佐々木氏」)。佐々木氏が近江守護につくのは佐々木定綱に始まるようです。彼は鎌倉時代(1185-1333)の文治(ブンジ)元年(1185)に近江守護に任じられています(1草津市史612)。
佐々木定綱の四男・佐々木信綱(ノブツナ)は、養和元年(1181)頃、源頼朝の側近であり、後に近江国守護を務めました。その名が『吾妻鏡』に出ています(注4)。子に重綱(大原氏の祖)、高信(高島氏の祖)、泰綱(六角氏の祖)、氏信(京極氏の祖)があり、この4子がそれぞれの家を興す(ウィキ「佐々木信綱」など)。
次に掲げる佐々木氏の系図は、「佐々木定綱」以下の子孫を示しています。
第2節 六角氏 ―12代から16代まで
下笠城の城主・下笠氏は、近江守護・六角氏(佐々木六角氏)の被官(武家の家臣)でした。その下笠氏が仕えた六角氏当主は、12代から16代までで、それらの当主名を下に掲げます。
1代六角泰綱1276年没 2代六角頼綱1311年没 3代六角時信1346年没
4代六角氏頼1370年没 5代六角義信1365年没 6代六角氏頼*1370年没
7代京極高詮(タカノリ)1401年没 8代六角満高1416年没
9代六角満綱1445年没 10代六角持綱1445年没 11代六角久頼1456年没
応仁の乱勃発(1462)、戦国時代へ
12代六角高頼1520年没 13代六角氏綱1518年没 14代六角定頼1552年没
15代六角義賢1598年没 16代六角義治(1557年家督相続、1612年没)
織田信長の上洛(永禄11年、1568年)―戦国時代終焉、安土桃山時代
(1568〜1600年)へ
17代六角義定1620年没
(出典:六角家のページ< https://busho.fun/tag/group-rokkaku >)
第3節 戦国時代の六角氏
つぎに、下笠氏が仕えた六角氏第12代から第16代までの事績と、青地氏、下笠氏などの動向を記します(主要出典:「ウィキペディア」)。
1.第12代六角高頼の時代-50年間にわたる波乱の歳月
六角家第12代・六角高頼(タカヨり)は50年間におよぶ波乱の現役時代を過ごし、永正[エイショウ]3年(1506)、嫡男・氏綱に家督を譲り隠居しています。その間、5度にわたり、近江守護の任免を繰り返されました。
① 六角高頼(幼名・亀寿丸、初名・行高)-1度目の近江守護
六角家第12代・六角高頼(六角正頼とも;幼名・亀寿、亀寿丸、初名・行高;生年?-1520没)は(注5)、康正(コウショウ)2年(1456)10月2日、父六角久頼の憤死(自害とも)する。六角高頼は父の死で家督相続する。その際、高頼は従兄六角政堯(マサタカ;佐々木政堯、佐々木四郎とも;生年?-1471没)を後見人として近江守護に就位します(ウィキ「六角高頼」「六角政堯」;1草津史593)。
以後、高頼は50年間活動し、その間応仁の乱(1467-1477)勃発、戦国時代突入という厳しい時代に遭遇、波乱万丈の星霜のあと、永正3年、嫡男・氏綱(ウジツナ)に家督を譲って隠居します。
② 六角政堯-1度目の近江守護
六角高頼(亀寿丸)は長禄(康正コウショウ3年9月28日[1457年10月16日]から長禄チョウロク4年12月21日[1461年2月1日]まで)2年(1458)6月、室町幕府により廃嫡される。理由は、1.彼が「西軍に属していたため」とか、将軍・足利義満(在位:文安6年4月29日-文明5年12月19日(1449年5月21日-1474年1月7日)に「罷免された」とか(1草津史587)。2.幼少の当主に不安を抱いた伊庭満高ら家臣団が策謀したとか、がある。
六角高頼に代わって、従兄・六角政堯が家督相続を認められ、近江守護に任命される(ウィキ「六角高頼」「六角政堯」)。
だが六角正堯は長禄4年(1460)7月(長禄は1457・9・28-1460・12・21)、守護代・伊庭満隆の子を殺害した科により、8代将軍・足利義政に守護代を更迭される(1草津史587)。
③ 六角高頼-2度目の近江守護
上記のように8代将軍・足利義政は六角正堯の守護職を更迭し、家督を六角高頼(亀寿丸)に戻させ、近江守護の座も六角高頼に返還させる(1草津史586-87)。
六角氏は寛正(カンショウ)元年12月(寛正は1460・12・21-1466・2・28)、内紛を起こし、他の多くの有力守護家と同様、応仁の乱の勃発(応仁元年1467年5月26日)で激しい同族間の争いを展開します。
六角家分裂
―東軍・六角政堯、京極持清・勝秀父子
―西軍・六角高頼
応仁元年(1467)5月、西軍(山名持豊方)の六角高頼らが、東軍(細川勝元方)の襲来に備えて京の屋敷に詰めている間に、東軍の京極持清・勝秀父子と六角政堯の軍が、六角氏の居城・観音寺城(蒲生郡安土町)を攻め、守将の伊庭雪隆(セツリュウ)を敗死させる。次いで6月、六角高頼は京でも攻められたため、8月、京の屋敷に放火し逃亡する。
だが10月、六角高頼は逆襲に出、同年末から翌春にかけて観音寺城(蒲生郡安土町)を奪回する(1草津史587-88)。
応仁の乱(応仁元年1467年5月26日)勃発
④ 六角政堯-2度目の近江守護
幕府は、東軍・六角政堯の軍と京極父子による六角高頼制覇という功労により、応仁元年(1467)6月、六角政堯を2度目の近江守護に任命する(1草津史593)。六角政堯は名実ともに近江の支配者としての地位を再度獲得したといえよう(『栗東の歴史』第1巻、404-05頁;1草津史587も参照)。
守山合戦
西軍・六角高頼(亀寿丸)は応仁元年10月ごろ観音寺城の奪還に成功し
ます。加えて、応仁二年(1468)に長光寺城と守山城(守山市森山町)
も配下に収めます(1草津史588-89)。
しかし、応仁二年(1468)11月には
上記の戦いを「守山合戦」と呼び、『草津市史』はこう続ける。「続いて同月一八日[応仁2年11月―筆者注]の観音寺城の戦いでは、京極持清の激しい攻撃にさすがの高頼方も支えかね、城を焼き払って出奔し、高頼方の宗徒(むねと)(大将)二三人が城下で斬首され」る(1草津史590)。「湖東はまたも東軍側に平定され、六角高頼[亀寿丸―筆者注]は残兵を率いて山間部のゲリラ活動に逃れ」た(1草津史590)(「守山合戦」については別稿「#近江・守山合戦」を参照してください)。
なお上記引用文中の「下笠某」について、『近江栗太郡志』は「下笠美濃守」と特定し、「美濃守は下笠宗家[ソウケ;「本家」と同義―筆者注]なるべし」とあります(「#近江・守山合戦」を参照してください)。
⑤ 京極持清-近江守護
応仁元年(1467)応仁の乱が起こると、京極勝秀は父持清とともに、従兄弟にあたる細川勝元の率いる東軍に属する(ウィキ「京極勝秀)。
応仁2年(1468)、東軍・京極持清と長男・京極勝秀、そして六角政堯とが、西軍・六角高頼(幼名・亀寿丸、初名・行高)と戦い、六角高頼の本拠地・観音寺城を落とす。だがその戦中、京極勝秀は、父持清に先立ち病死している(ウィキ「京極勝秀)。
幕府は文明元年(1469)5月(1草津史593)(注6)、六角政堯の近江守護を解任し、京極持清を近江守護に任じる(1草津史590、593)。
京極持清は、以後も六角高頼との戦いが続く中、文明2年(1470)8月に64歳で病死する(ウィキ「六角政堯」「京極持清」;1草津史590)。
⑥ 京極孫童子丸
京極勝秀の子・京極孫童子丸(マゴドウジマル)は文明2年(1470)家督と守護職を継承し、補佐役に叔父六角政経(マサツネ)を、そして守護代に多賀高忠をおく。
しかし、もう一人の叔父京極政光と多賀清直とが反発し、孫童子丸の庶兄・乙童子丸(オツドウジマル;のち高清)を擁立して六角高頼と組み、西軍へ寝返る(京極騒乱)。
六角政経と多賀高忠は、六角政堯と共に東軍にとどまるなか、文明3年(1471)8月、孫童子丸は夭折する。家督は六角政経が継ぐが、乙童子丸派との抗争は、応仁の乱終結後も継続し、京極氏の弱体化を招いた(ウィキ「京極孫童子丸」)。
⑦ 六角政堯-3度目の近江守護、そして自害
文明2年(1470)東軍の京極持清の病没により京極氏が分かれると(京極騒乱)、西軍に京極高清が加わるなど京極氏は混乱し、そのため、一時閉塞していた西軍の六角高頼は近江に勢力を伸ばし、文明3年(1471)8月、六角政堯は孫童子丸の死をうけ、3度目の近江守護に任命されたが、同年10月、六角高頼(亀寿丸)により、政堯の居城・箕作(ミツクリ)城(別名・清水城;六角高頼の観音寺城に対抗し、六角政堯築城)を落とされ、、政堯自害する(ウィキ「京極騒乱」「六角政堯」;1草津史593)も参照)。
⑧ 六角虎夜叉
六角政堯の死を受けて、六角政堯の養子・虎千代(虎夜叉)が近江守護(文明3.11-文明5.9)に任命される(注7)。
応仁の乱終結(文明ブンメイ9年[1477]11月)
⑨ 六角高頼-3度目の近江守護
六角高頼は応仁の乱終結後の文明10年(1478)、幕府から3度目の近江守護に補任される(ウィキ「六角高頼」「京極政経」;1草津史593)。
六角高頼征伐(第一次失敗)
この時期、江北の守護京極持清(モチキヨ)が、幕府側の東軍(細川勝元方)
に属する。他方、江南の六角高頼は西軍(山名持豊方)につき、権力強化の
ために、公家領・寺社領などの領地を横領して配下の国人[クニビト、コクジン、
クニュウド゙とも読み、その国の国民、住民の意―ウィキ参照]衆に分け与え
ました。結果、国人領主らの間で「自立化」が見られ、9代将軍・足利義
尚(ヨシヒサ)の怒りを買うことになり、長享元年(1487)7月、六角高頼の守
護職更迭、9月、将軍の親征(「君主が、自ら軍の指揮を執り戦争に出る
こと」)を決行する(BIGLOBE<
https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/RokkakuTakayori.html >参照)。
「鈎[マガリ]の陣」
9代将軍・足利義尚は、「幕府の奉公衆ら近習(キンジュウ―筆者注)」が
出した「訴え」、すなわち「六角氏被官による所領の蚕食(サンショク)の訴
え」を聞き入れ、「長享元年(一四八七)七月二三日」、「高寄討伐」の
「決定」を下したのを機に(1草津史597)、湖国の山野は全面的に戦乱
に巻き込まれます(1草津史586-87)。
「長享元年9月12日」、将軍「自ら」、兵力「391騎8000人」を率いて守
護大名・佐々木六角高頼討伐に乗り出します(「鈎の陣」<
https://www.kaho.biz/main/magali.html >)。
他方、佐々木六角方の軍兵は、長享元年9月、六角高頼の命令で、山田・下笠付近に充満していたと考えられます(1草津史598)。
幕府軍は9月20日、瀬田・大萱・志那等の港あるいは集落を焼き払っていますが(1草津史598-99)、諸記録には、この時、両軍の間で戦端が開かれたとする記述がないことから六角高頼はすでに湖岸守備の軍勢を甲賀方面へ撤退させていたと推測されます(1草津史599)。以後24日にかけて幕府軍は湖東の諸城を攻め始めている(1草津史599)。これに対し、六角高頼は観音寺城に、そして前守護代伊庭貞隆は近江八幡の金剛寺城に、その被官達は八幡(山)城に、前蒲生郡代九里(クノリ)は近江八幡の岡山城にそれぞれ立てこもっていたが、ほとんど抵抗なく、23、24日に撤退を始めている(1草津史599)。幕府軍の大部分は、六角高頼が三雲城まで撤退したとの報で、湖東の平野部はほぼ幕府側の勢力下に入ったとみなし、長享元年(1487)10月4日、下坂本より兵船で志那、山田の港に渡り、草津を経て近江鈎(マガリ)の安養寺に入ったと考えられる(1草津史600)。
長享3年(1489)3月、将軍義尚は「深酒に体を侵され、ほとんど酒精(アルコール)中毒の状態」にあり、24歳(25歳?)の若さで鈎の陣で病死します(1草津史606;ウィキ「足利義尚」)。将軍自ら出陣したにもかかわらず六角高頼を討てず、室町幕府の弱体化を天下にさらす結果となりました(注8)。
青地氏と下笠氏、将軍に従う
『栗太郡志』は「此時」、つまり長享元年(1487)9月の「鈎の陣」で、「青地氏及び其部下は將軍の軍に從ひしに反し」、「栗太武士にして佐々木氏の軍に從ふもの二十七家あり」(2栗太488⁻89)。つまり、青地氏は将軍側につき、六角高頼と戦ったということです。青地氏の採った行為は、下笠城主・下笠美濃守實親(下笠左衛門尉實親)に通じます。下笠美濃守實親は将軍(幕府)側にあって、六角高頼の将兵「一色兵助」を討ち取り、その「報奨」として9代将軍・足利義尚(ヨシヒサ)から「下笠五ケ村を知行」しています(注9)。
ゆえに、『草津市史』の記述、つまり「青地氏は佐々木氏の一族であることから、高頼に与したと考えられるが、詳細を知ることはできない。」(1草津史610-11)における「高頼に与したと考えられる」は正鵠を射ていないでしょう。
⑩ 六角高頼-4度目の近江守護
9代将軍・足利義尚の死亡で親征は中止になり、六角高頼は10代将軍・足利義材(ヨシキ)(のちの義尹ヨシタダ、義稙ヨシタネ)に赦免され、延徳元年(1489)7月、4度目の近江守護に復帰します(1草津史593)(注10)。
六角高頼征伐(第二次失敗)
近江守護六角高頼は
国人衆は押領した所領を返還しなかったために延徳元年10月、将軍足利
義材は六角高頼の守護職を罷免し(1草津史593)、延徳3年(1491)、
再度の六角高頼追討に乗り出します。
だが細川政元は、前将軍足利義尚の追討時と同様、将軍に非協力的
で、出兵に猛反対さえした(1草津史606-07)。同8月、下笠町の老杉神
社で、将軍義材の出兵直後、当所ことごとく兵火にさらされている(1
草津史608)。明応元年(1492)3月幕府軍が神崎郡の簗瀬(ヤナセ)で大
勝を博したが、六角軍は容易に引き上げず、湖東の諸所に兵力を温存し
ていた(1草津史607)。
明応元年12月下旬、芦浦の観音寺に六角氏の有力被官九里(クノリ)の手兵
が乱入し、財物の略奪を働いている。観音寺が幕府軍の陣所になってい
たことへの報復とみられています(1草津史609)。結局、第二次六角高
頼征伐も、高頼を伊勢に逃がしただけで、同年12月幕府軍は引き揚げざ
るを得なかった(1草津史609)。
10代将軍足利義材追放、真の戦国時代に
明応2年(1493)春、10代将軍・足利義材は「細川政元の陰謀」で追われ、「世はいよいよ真の意味で戦国時代に突入」します(1草津史609)。
⑪ 六角高頼-5度目の近江守護、そして隠居
「その後六角高頼は幕府への忠誠に転じたことから明応四年[1495―筆者注]一二月以前[つまり11代将軍足利義澄(ヨシズミ)時代―筆者注]に、幕府から近江守護職を還付され」、「以後目立った戦乱もなく、六角氏は順調に守護領国制を展開させていく」(1草津史609)。
永正3年(1506)、六角高頼は嫡男・氏綱に家督を譲って隠居する。その後、氏綱は父に先立って死去したため僧籍にあった次男・定頼を還俗させて家督を継がせる(ウィキ「六角高頼」)。
六角高頼被官の下笠實親
この趨勢のなかで、下笠實親は「六角方の十一備の一家」、つまり「六角方の十一」部隊の一隊になっています(注11)。
美濃土岐氏の家督相続争い
嫡男・土岐政房の側に美濃守護代斎藤利国と江北の京極氏ら
四男・土岐元頼の側に石丸利光、江南の六角高頼の被官・青地氏ら
明応4年(1495)美濃の守護土岐(トキ)家で、嫡男・土岐政房と、四男・土岐
元頼との間で家督争いが起こる。美濃の守護代斎藤利国(別名妙純ミョウジュン)らは嫡男・土岐政房を擁して江北の京極高清氏らに援助を求めたのに対し、小守護代石丸利光らは四男・土岐元頼を奉じて六角高頼に助力を乞います。
明応4年6月、四男・土岐元頼は石丸利光らとともに、嫡男・土岐政房方と戦うが、7月の戦いで敗れ、土岐元頼と石丸利光らは近江へ逃れる。
明応5年(1496)美濃守護土岐家で、嫡男・土岐政房と四男元頼の間で後継争いがおこり、六角高頼は、同族で家臣の青地氏に命じて美濃に出兵させ、四男元頼側に立たせている。
近江へ逃れた土岐元頼は六角高頼に庇護を求めています。六角高頼は、土岐の求めに応じて、家臣の青地氏を美濃へ出兵させる一方、伊庭貞隆に命じて土岐元頼らを庇護させる。
土岐元頼が再起を期して再び美濃へ出兵したとき、六角高頼は青地(頼賢?)、伊庭、九里、三雲、種村、高野瀬、下笠の各氏に援護させる。だが結果は、土岐元頼と石丸利光の軍が、斎藤利国軍の反撃を受け(舩田合戦)、敗北。明応5年5月、土岐元頼と石丸利光・利元父子が自刃したことで一連の抗争は5月末に終息する(ウィキ「土岐政房「土岐元頼」「六角高頼」「斎藤妙純」「京極高清」;BIGLOBE< https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/Funadakassen.html > )
江北の京極氏の攻撃で、青地氏、下笠氏らの配下500余人戦死
土岐・石丸らの敗死で、六角高頼側の近江勢は美濃で行動する機会を失し帰国する。途中、土岐政房を支えた江北の京極高清に攻められ500余人の戦死者を出す(1草津史611)。
ちなみに六角氏、青地氏、京極氏は同族です。六角氏の祖は、上掲の系図にあるように、六角信綱の子・泰綱に始まり、京極氏の祖は六角信綱の子・氏信に始まります。
六角氏の家臣団分裂
伊庭貞隆、主家六角高頼に謀反・・・
神崎郡能登川の伊庭城の城主伊庭氏は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将・御家人で、佐々木信綱(養和元年(1181)?-任治ニンジ3年(1242))以来の佐々木氏の臣下と伝えられる重臣です(ウィキ「佐々木信綱」)。
伊庭貞隆 × 青地頼賢
1502年、青地城落城
だが、文亀二年(1502)10月、当時の守護代伊庭貞隆は主家六角高頼に反旗を翻し、一度は敗れるが、12月再活動を始め、12月18日青地城を落城させる。六角氏一族の青地城主・青地頼賢は伊庭氏の誘いに応じなかったのです。伊庭貞隆の反乱は六角氏の家臣を二分します(1草津史612-13)。
伊庭勢はさらに北上し、25日に蒲生郡馬淵城を、ついで野洲郡永原城を陥落させ、六角高頼の逃げ込んだ日野城に迫ったが、文亀三年六月幕府の介入で和議が成立し、伊庭貞隆は守護代に復帰します(1草津史613)。
青地城陥落後の永正四年(1507)6月、細川澄元(スミモト)は京都を逃れて一時青地城に身を寄せるが、2日後に甲賀郡の山中新左衛門の城へ移っている。青地城は落城から5年しか経ておらず、城の再建は未完成だったのです。「半世紀」後でさえ、再建は不十分だったようです(『1草津史614)。
⑫ 六角高頼-治世50年、そして隠居
歴史を遡及すれば、六角家嫡流の第12代六角高頼は父の死で近江守護に初就任したのは康正2年(1456)のことです。以来50年間の治世を経て、永正3年(1506)、嫡男・氏綱(ウジツナ)に家督を譲って隠居します。この間に、応仁の乱(1467-1477)が起こり戦国時代突入し、混沌とした情勢が続くなか、従兄・六角政堯と戦って戦死させています。近江守護の座をいえば、彼は断続的に5回任免を繰り返されている。戦国時代の秩序紊乱を示す一事です。いま彼の長い時代が終わり、家督は第13代に代わります。
2.第13代六角氏綱の時代-将軍に忠誠
六角氏綱は永正3年(1506)六角家第13代当主に就任し、5年後の永正8年(1511)以後、一貫して室町幕府10代将軍足利義稙(ヨシタネ)系の将軍に忠誠を誓うことになります(ウィキ「六角氏綱」)。そして永正13年(1516)、六角氏綱は細川氏との戦いで戦傷を負い、これが原因で(ウィキ「六角定頼」)、永正15年7月9日、父高頼に先立って27歳で早世します(ウィキ「六角氏綱」)。なお高頼の死は永正17年10月(1520年12月)です。
3.第14代六角定頼-将軍に忠誠
第14代六角定頼(サダヨリ)は、永正15年(1518)、兄・氏綱の死を受け、還俗して家督を相続し、天文21年(1552)までの34年間にわたり治世に尽くします。ちなみに、六角定頼は、下笠氏第6代信濃守頼実(川端61)に、片諱(ヘンキ;偏諱と同義で貴人の一字の意)「頼」を与えています(2栗太184)。定頼の下笠氏への信頼・期待が大きかったことの証でありましょう。
――下笠信濃守頼実と家臣・小寺兵庫介はどの戦いで「討死」したのか
六角定頼は治世中に4度の戦いに関与しています。その戦いを記しましょう。1.定頼は細川政賢(マサカタ)(永正8年1511年没―ウィキ)を破っている。ただし、定頼がどういう戦いで細川政賢を破ったかについての言及はない(ウィキ「六角氏綱」)。2.定頼は「両細川の乱」(永正6年1509-天文元年1532)を終結させています(ウィキ「六角氏綱」)。3.摂津での江口(エグチ)の戦い(江口合戦-村井43-4)(天文18年・1549年6月)で三好長慶と戦っています(ウィキ「六角氏綱」)。4.北近江の領主・浅井家に侵攻していますが、定頼晩年のことであり、定頼の嫡男・義賢(ヨシカタ)(法名・承禎ジョウテイ)の戦いでもあります(ウィキ「六角氏綱」)。ウィキペディアで言及されている定頼の戦いは以上であるが、別の史料にもう1つ、定頼時代の「戦闘」が記録されています。天文14年(1545)5月、「三好氏と対立した細川晴元の援軍として、江州勢が宇治へ出兵しているが、大きな戦闘にはつながらなかったようである」(村井42)とありますが、定頼がこれにかかわっていたかは不明です。
川端61に、下笠信濃守頼実は「天文15年4月討死」、「家臣・小寺九郎兵衛討死」、「家臣・小寺兵庫介討死」とありますが、上述のように、天文15年(1546)に3人の大人物が「討死」するような合戦の記録はないのです。川端氏の依拠する「下笠氏系図」の記者は、彼らが何の戦いで「討死」したかについては未知であったと見なされます。
ちなみに、彼らの没年の「天文15年」は、織田信長は13歳であり、武人としては無名です。信長の初陣は天文16年(1547)であり、桶狭間の戦いは永禄3年(1560)、上洛は永禄11年(1568)です。
4.第15代六角義賢(法名・承禎)の時代
六角義賢(ヨシカタ)は天文2年(1533年)4月、観音寺城で元服し、12代将軍・足利義晴から偏諱「義」を得て、義賢と名乗ります。天文21年(1552)、父・定頼の死去で家督を継ぎ、弘治3年(1557)、嫡男・義治に家督を譲って隠居、剃髪し、承禎(ジョウテイ)と号したが、実権は永禄11年(1568年)まで握り続ける。
六角家は甲賀郡を含む近江国の守護であり、更に他国の伊賀国の4郡の内の3郡の間接統治も行っています(ウィキ「六角義賢」)。
――幕府に忠誠だが、その後・・・
永禄8年(1565)5月、京で13代将軍・足利義輝(ヨシテル)が三好三人衆らに殺害されると(永禄の変)、義輝の弟・一乗院覚慶(カクケイ)(のち15代将軍・足利義昭)は近江の和田惟政(コレマサ)(幕府の重臣)の下に逃れる。
当初、承禎は覚慶の上洛に協力する姿勢を見せて野洲郡矢島に迎え入れたりしているが、三好三人衆の説得に応じて義昭(覚慶)を攻める方針に転じたため、義昭は越前の朝倉義景の下へ逃れた(ウィキ「六角義賢」)。
これを受けて、永禄9年(1566)、浅井長政が六角領に侵攻を開始、蒲生野合戦が行われるが、六角家中は浅井側に寝返る家臣があり、浅井を食い止めるだけで精一杯となった。
――信長、六角氏の居城・観音寺城占領;六角氏滅亡へ
永禄11年(1568)9月、織田信長軍が足利義昭を奉じて上洛する途次、六角承禎は三好三人衆と通じて信長軍と戦う。だが居城・観音寺城を占領され、甲賀山中へ敗走します。
これを機に六角氏の家臣団は分裂と抗争を繰り返し(1草津史636)、「多くの佐々木六角家被官」は「宗家から離れ」、被官の一人、青地城主・青地駿河守茂綱は、同永禄11年、織田信長が六角氏を「敗りし時、早く信長に從」う(1栗太623)。他方、「下笠氏は駒井氏同様」、宗家・六角氏に忠誠を尽くしていました(川端60-61)。
天正元年(1573)8月、承禎と連携していた朝倉義景・浅井長政は信長に討たれ、さらに天正9年(1581)伊賀も信長に平定され、同年、承禎はキリシタンの洗礼を受けます。その後、承禎は天下を掌握した豊臣秀吉の御伽衆(オトキギシュウ)となり、慶長3年(1598)死去、享年78(ウィキ「六角義賢」)。
5.第16代六角義治の時代
――幕府に忠誠だが、その後・・・
六角義治(ヨシハル;幼名義弼ヨシスケ)は、13代将軍・足利義輝から片諱(偏諱と同)「義」を与えられる(ウィキ「六角義治」)。弘治3年(1557)、父・義賢(承禎)の隠居により家督を相続したが、実権は依然として承禎が握る。
永禄3年(1560)、義治は離反した浅井氏に対抗するため、美濃斎藤氏との縁組を進めようとして父の怒りを買い、飯高山へ一時逼塞する(ウィキ「六角義治」)。
永禄8年(1565)、三好三人衆などによる将軍・足利義輝殺害事件(永禄の変)と、信長の観音寺城占領は上述の通りです。六角氏は自滅していきます。
第5章 下笠
第1節 下笠城のあった城中
ウォーキングを続けましょう。老杉神社前の参道を真っ直ぐ進むと一の鳥居があり、それを通り抜けて直進(少し曲がってますが)しますと井ノ元(井ノ本、井本)の通りがあり。5分ほど進むと高札場跡(コウサツバアト)があります。
第2節 下笠氏来歴
清和天皇 → 頼房(宇野氏を名乗る) → 宇野源太郎守治 → 下笠美濃守實親
下笠氏は「清和源氏の流れをくみ、元は宇野氏」で、「清和天皇から6代目の頼房(従五位下肥後守)が大和国宇野庄を賜り、土地の名をとって宇野氏を名乗り宇野氏の祖となる。頼房から9代目・守治[宇野源太郎守治(モリハル)―筆者注]が承久ノ変(承久3年・1221年)の功により」、鎌倉幕府から「近江国粟津大石関ノ津を賜」り、「瀬田川の東岸、笹間ケ岳の西麓」にある「源太郎山と呼ばれる丘陵」に「関津(セキノツ)城」(関ノ津城;別名「宇野城」)を築きました(注12)。川端氏によりますと、宇野源太郎守治から「10代目」にあたる人物が「実親」(下笠美濃守實親または下笠左衛門尉實親)で、彼は「足利将軍・義尚」の「鈎ノ陣」で「中功をたて、下笠に所領を賜り土地の名を取って下笠氏を名乗」り、故に、彼が「下笠氏の祖」、「初代」であると(川端60-61)(注13)。
第3節 下笠城主
上述のように、筆者は宇野日出生著『村落祭祀の機能と構造 滋賀県草津市下笠町の頭屋行事を中心に』の論考から下笠城の築城年を室町時代(1336-1573)の「1380年代」と見ています(別稿「#新説・草津下笠城」を参照してください)。
史料不足で断定的なことは言えないのですが、私見では、1380年代の築城以来、この城には下記のように7人の殿様が存在していたと考えています。
① 下笠城初代城主・下笠中将権左衛門
上記宇野の論考に「お旅所の別膳は昔は下笠城主の中将権左衛門に撤下[テッカ―筆者注]された」という一文があり(宇野日出生233)、この「下笠中将権左衛門」が初代城主であろうとみています(別稿「#新説・草津下笠城」を参照してください)。
なお上記引用文中の「お旅所」とは、老杉神社の頭屋(トウヤ)行事で「神体を乗せた神輿が巡行(ジュンコウ)の途中で休憩する場所」をいいます(ウィキ「お旅所」参照)。
② 第2代城主・下笠美濃守源高賀
第2代城主はおそらく「下笠美濃守源高賀」でありましょう(別稿「#新説・草津下笠城」を参照してください)。彼の名前は、「老杉神社本殿」の「棟木」に「享徳元年(1452年)」・「下笠美濃守源高賀奉建」という形で遺されています(注14)。
そしてこれも推測の域を出ないのですが、京で応仁の乱(1467年5月26日-1477年11月20日)が勃発し、戦国時代(1467-1568)に突入したのは彼の治世中のことと思われます。
③ 第3代城主・下笠美濃守
第3代城主は下笠美濃守でありましょう。この人物は、既述のように、「守山合戦」で「東軍六角政堯に属して捕縛され」、「自殺」しました。『近江栗太郡志』は彼を「下笠美濃守」と特定し、「美濃守は下笠宗家[ソウケ;「本家」と同義―筆者注]なるべし」と記しています(#近江・守山合戦」を参照してください)。下笠美濃守の死は応仁2年(1468)であり、次に掲げる下笠左衛門尉實親に先立つ人物です。
なお上述の3人の下笠城主、①下笠美濃守源高賀 ②下笠中将権左衛門 ③下笠美濃守は「下笠家系図」に出てきません。系図の記者は、これらの人物については未知であったということでしょう。
④ 第4代城主・下笠左衛門尉實親
川端氏によりますと、下笠左衛門尉實親(下笠美濃守實親)は、宇野源太郎守治(モリハル)から「10代目」にあたる人物です(川端60)。既述のように、第9代将軍足利義尚(ヨシヒサ)(位1474-1489)が長享元年(1487)9月、守護大名・佐々木六角高頼討伐のために、みずから兵力391騎8000人を率いて、栗太郡鈎(マガリ)の安養寺に陣を敷きました。その際、実親は将軍(幕府)側にあって、六角高頼の将兵「一色兵助」を討ち取り、「報奨」として「将軍義尚」から「下笠五ケ村を知行」しています(川端57)。
なお、川端氏は「下笠氏の祖は下笠左衛門尉実親を初代」とし(川端60)、「下笠氏」の名の「公認」について次のように記しています。「関ノ津[関津城とも綴る―筆者注]城主・宇野氏が下笠方面に勢力を延ばしてきて、いつ頃か宇野氏が土着し下笠氏を名乗る様になり、ハッキリ下笠氏が公認されたのは實親の代からではなかろうか」(川端58)。そして同氏は、下笠左衛門尉實親時代の長享元年(1487)ごろ下笠城の築城があったと見ています(川端57-58)
川端氏のご高説ではありますが、筆者は、宇野日出生著『村落祭祀の機能と構造』に登場する「下笠城主の中将権左衛門」と、老杉神社の「棟木」の「下笠美濃守源高賀」の記録を根拠に、下笠美濃守源高賀の時代、「下笠」という名はすでに村人の間で定着し、領主屋敷(城郭)も存在したと推定します(#新説・下笠城)を参照してください)。
⑤ 第5代城主・下笠美濃守長光
實親の嫡男「長光」は「六角方と不和になり、正月朔日に攻められるが、後に青地方からの働きかけにより赦免される。」(注15)青地氏はこのとき佐々木六角氏の臣下で、下笠氏のために働いているという事態から、彼はこの時期、下笠氏と友好関係にあったことになります。なお、長光は永正元年(1504)年に死亡しています(川端61、81)。
⑥ 第6代城主・下笠信濃守頼実
下笠家当主第6代と見られる人物は下笠美濃守長光の子、下笠信濃守頼実でありましょう(川端61参照)。彼は、名前の片諱「頼」を、六角高頼の次男で、室町幕府の家臣・佐々木定頼(六角定頼;明応4年-天文21年;1495-1552)から与えられています(2栗太184)。「六角氏当主」は「下笠氏」を重用し、彼を、「強い影響を与えうる家臣の一人」(新谷128)と処遇していたということでありましょう。頼実は「天文15年[1546年―筆者注]4月討死」、「家臣・小寺九郎兵衛討死」、「家臣・小寺兵庫介討死」しています(川端61)。既述のように、頼実たちがどの戦いに関わったのかは不明です(上記「3.第14代六角定頼」を参照せよ)。
⑦ 第7代城主・下笠三郎左衛門弼實――最後の城主
信濃守頼実の嫡男(2栗太184、3栗太373)・下笠三郎左衛門弼實(スケザネ?)はその名の一字「弼」を、六角義弼(ヨシスケ)(別名・六角義治、六角義堯)から与えられています(2栗太184)。六角氏の、下笠氏に対する信頼・期待は変わらないということです。
永禄9年(1566)、「下笠城主(下笠弼実)」は、「信長派の青地城主(青地駿河守茂綱)」と戦い討死、落城しています(川端20、60-61)。このとき青地氏は、すでに佐々木六角氏を見限り信長派に転じていたということです。いかに生き残るか、それが戦国時代の定めでありましょう。
他方、信長に対抗した六角義賢は、1568年、観音寺城を信長に占領され、滅亡してゆきます。下笠城の落城年、すなわち永禄11年(1568)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始し、戦国時代は終焉します。
下笠領内での山岡氏と駒井氏の戦い
下笠城落城前の「天文19年(1550年)3月4日午後」、「勢多掃部介[セタカモンノスケ―筆者注]家久(山岡氏側)と駒井兵部大輔[ヒョウブタユウ―筆者注]氏秀(駒井氏側)が下笠村に於いて合戦し、寺内[西照庵(曹洞宗)の寺内(ジナイ)―筆者注]に乱入して放火する。この時三宇の堂宇焼失したが、弘治[(コウジ―筆者注]3年(1557年)薬師堂・観音堂・大黒堂の三宇再建する」(川端80-1)。
山岡氏と駒井氏がなぜ下笠領内で合戦し、なぜ禅寺・西照庵に乱入し、どちらの軍が寺に放火したのか、またこの合戦で下笠氏と六角氏はどういう動きをしたのかは不明です。
上記山岡氏は、勢多城(別名瀬田城、山岡城;出典「瀬田城」< https://kojodan.jp/castle/257/ >)を中心に近江国南部を領した甲賀郡出身の山岡景隆(1525-1585)の一族でありましょう。
青地茂綱と駒井城主の最期
元亀元年(1570)9月、佐々木氏最後の将・佐々木義治が旧臣・浅井長政と朝倉義景らを集め、信長に対抗して信長派の森長可(ナガヨシ)の居城、大津・宇佐山城(別名志賀城)に迫る。この時、森長可と青地茂綱らは迎撃に出ましたが共に戦死しています(1栗太623)。青地茂綱、享年41。
天正9年(1581)、六角氏一族の、坊の城(駒井城)の城主駒井氏は「時世判断を誤ったのか」、「最後まで佐々木六角氏に仕え」、「以前は同じ佐々木六角氏被官であった織田派の勢多城主・山岡景隆」に「攻められ」て落城し「滅亡」しています(注16)。なお山岡景隆に天正10年6月2日(1582年6月21日)明智光秀が本能寺の変で織田信長を倒したあと安土城へ向かうのを、瀬田橋を焼き落として進路を阻んだことが「太閤記」にあります(注17)。
落城後の下笠氏
下笠城落城後、「当地は織田家被官佐久間信盛が領していたと思われ」る(川端20)。下笠城の「城跡は、近世には下笠忠右衛門の宅地となり、堀は悉く埋め立てられ田畑となったという。」(注18)。
下笠城主・下笠三郎左衛門弼實は討死しました。弼實の子「宗治」は「下笠城破却にて隠密に出生」、姓は「下笠氏より宇野氏へ」、次の当主は「長右衛門尉種治」、次は「忠右衛門尉正治 膳所藩代官」(以上川端61)、次は「忠右衛門尉利治 下笠氏を名乗るを許される」(川端61;新谷131)です。「利治(光貞)以後、[2字略―筆者]真栄(明治6年死去)に至るまで膳所藩の代官職を世襲する。」(川端61)。
第4節 市場・寺内・北出・・・
ウォーキングを続けましょう。下笠城址をあとにして前述の下笠会館前のびわこ通りを横断すると、南側前方に「市場・寺内・北出・南出・小屋場」が開けています(注19)。これらの地域を含め、下笠地区は城下町時代、活気を呈していたに違いありません。その推測を、いくらかの史料は許しています。
下笠という農村は、かつては周辺村落と較べてかなり広域だったようです。栗太郡梨原郷(ナシハラゴウ)は「常盤村・笠縫村の大部分・大宝村の幾部」からなり(川端3)、その中に「下笠・上笠・野村・平井・小平井・川原」が属し、これら6村を以って「一庄」としたのに対し、「下笠は一村で笠庄の下笠郷と呼ばれていた。下笠の中に小字集落として、馬場・井本(井ノ元)・下出・市場・寺内・南出・小屋場の七ケ村があったと近江輿地志略(享保19年・1734年発刊の歴史書)に記されています。」ここに「北出が記されていないのは脱落か、それとも当時は無くその後に成立したかは分かりません。」(川端5、40)これらの記述から、下笠という農村は周辺の集落に較べて広域だったことが分かります。
下笠に「市場」という地域があります。当地は城郭時代、すなわち下笠城築城年の「室町時代の1380年代」から、下笠城の落城年であり同時に戦国時代の終焉年でもあります永禄11年(1568)までの約200年間、物品の交換、販売でかなり賑わっていたに違いありません。「『市場』は、ハッキリと下笠城が在った時代に夷川を利用した市場が開かれていた場所からきています。」(川端40)
その約200年間、下笠地区は経済的に潤った黄金時代といえましょう。殿さまがいて、城を造営・維持し、家臣団を抱え、馬場で武士を鍛錬する財力を有したのです。もっとも、中世の武士は、江戸時代の武士のように主君から扶持(フチ)を得て生活するのではなく、農村に住み、直接的・間接的に農業に従事し、百姓名(ミョウ)を得て村落の管理運営にあたる名主層でもあったとしても、です(1草津史619)。
農業にくわえ、商工業の発展は不可欠であったことは想像に難くありません。『古地図に描かれた草津』という本があります。それを開きますと、
本書は「明治十三年」刊でありますが、村落の形態というのはあるとき突然に出来上がるものではなく、長年の経過とともに出来上がっていくと考えてよいでしょう。「近隣農村」の「町場的な性格を有」した「市場」の原形は、城郭時代に出来上がっていたと考えたいのです。
さらに川端氏は下笠城の「全景」についてこう推測しています。
『草津市史 第二巻』付属の地図「近世の草津市域」を見ますと、下笠のすぐ近くに船の絵が描かれています(後掲地図参照)。当時の琵琶湖は、今では想像もつかないぐらい陸地部に入りこんでいたようです。「夷川」に加え、船着き場に着いた商船・漁船は、積み荷の産品・魚介類を荷揚げして市場へ運んだと考えてよいでしょう。農商工業に従事した村人の活気ある姿を思い描きたいのです。
江戸初期の米の生産量を他地域とくらべてみましょう。笠縫八ケ村「上笠、野村、平井、川原、駒井沢村、新堂、集、下笠」の中で、「下笠」は「1648石」であり、2位の「上笠」「895石」を大きく引き離しています(川端50-51)。
文化の中心地でもある、笠縫八ケ村の戦国時代(1467-1568)における寺院数を単純比較してみましょう。下笠は8寺院中2寺院(宗栄寺は1623年開創;順光寺は天保年間・1830~44年に山田から移転)を除いて6寺院、上笠は5寺院中1寺院(行者堂創建は明治時代)を除いて4寺院、野村は5寺院中1寺院(明光寺の開基は延宝(エンポウ)元年・1673年)を除いて4寺院、駒井沢は4寺院中1寺院(戒定院の開基は1843年頃;毘沙門堂の開基は不明)を除いて3寺院、集(アツマリ)は4寺院中1寺院(宗休寺の開基は1730年代)を除いて3寺院、川原(カワラ)は2寺院中1寺院(観音堂開基は明治初期)を除いて1寺院です(川端64-81)。寺院の多さは文化の発展と賑わいを示す一指標となりましょう。
寺内(ジナイ)という地域があります。川端氏はこれを宗栄寺の寺領とみています(川端40-41)。本寺については後述します。
「市場」をあとにして、直進、あるいは右・左と歩けば、「寺内・北出・南出・小屋場」が広がっています。現存の町の規模が、城郭時代とどれほどの違いがあるのかは分かりませんが、こんにちでは町自体は小さく、往時を偲ばせる遺構などは見つけることが出来ませんでした。ただし、頭屋行事は今なお維持存続されており、じつに640年ほどの伝統を誇る神事であります(別稿「#新説・草津下笠城の築城年」を参照してください)。下笠人(びと)の温厚実直な気質を語って余りある一事といえましょう。
第5節 下笠の3寺院
特徴のある寺院を3つ取り上げましょう。
宗栄寺
宗栄寺は交番前のびわこ通りを横断して南へ徒歩5分ほどの距離です。この寺(浄土宗)は、勢多(瀬田)城主山岡景隆(1525-1585)の没後、「長」という名の未亡人が当地に移り住み、宗榮尼と称して夫の菩提を弔っています(注20)。豊臣秀吉(1585年従一位関白宣下、1598年没)は彼女に養老料として五十石の地を与えました。夫・景隆が生前、本能寺の変後の天正10年(1582)、安土城へ向かう明智光秀の進路を阻むために瀬田橋を焼き落としたことの論功でありましょう(川端77)。宗榮尼は元和9年(1623年)6月6日逝去、知光院賢譽宗榮と謚(オクリナ)されています。山岡景隆の七男・主計頭(カズエノカミ)景以(カゲモチ)が母の遺命に従い、住地を寺(宗栄寺)としたのが始まりです(注21)。
宗栄寺はいまなお寺院としての威厳が感じられます。主たる理由は「子孫のもの入って僧となり香華を供せり、幕府は境内を除地とし殺生禁斷の制札を寄せて保護を嚴にす」にあるようです(5栗太463;川端77)。なお、宗榮尼は佐々木氏の家臣水原河内守秀清の娘でありますが、彼女が下笠に「移り住」んだ確かな理由は分かりません(注22)。
西光院
宗栄寺から南へ3分ほど歩くと、宗栄寺と同じ浄土宗の西光院があります。当院は『近江栗太郡志』に「文明九年[1477年―筆者注]眞譽運阿彌の開基する所なり」とありますが(注23)、「下笠系図」に「美濃守長光が開基」と「記され」、下笠氏の菩提寺であり、境内に「下笠城々主歴代の墓石」がありますが(川端60、61、81)、墓石は風化し文字の判別は不可能です。そのうえ、下笠家の墓石数は、開基当時の三分の一ぐらいに減っているようです。当寺の現状は、宗栄寺にくらべ、寂寥感が漂っています。500年という星霜は何ごとにおいても変化をもたらすものです。
西照寺
西照寺(西照庵)は上述のように「天文19年(1550年)」に放火に遭い、「弘治3年(1557年)」に再建を果たしましたが、「元亀元年(1570年)佐々木六角承禎の軍兵、笠堂坊主舎ことごとく放火焼失させる。天正3年(1575年)奉加勧進し一宇を再建」する(川端80-1)。このように、本寺は「何度も戦火に遭い、再建再建で人民・財政も疲弊に達し、栄華を誇った下之笠堂も往古の面影もなく小堂一宇を残し現在に至る。」(川端81)
西照寺は老杉神社の一の鳥居を出て右折し、浜街道を横断して直進すればすぐの所にあります。確かに「往古の面影」はありません。
他に専立寺、光林寺、専念寺、専崇寺が、そして当然宗栄寺、順光寺も現存します(川端78-81)。
終章 ウォーキングを終えて
ウォーキングを終えて沈思黙考しますに、下笠という地域は、今日もなお中世の村落の形態をとどめている静かな農村地区であるということ、そして人びとの気質は温和で日々の暮らしをゆったりと営んでいるということ。この点で、大都会の雑踏と喧騒に疲れ、当市に移り住んだ者には思いがけない僥倖であり、タイムスリップの感があり、ここに中世の残照を見ます。加えて、建築物では、西光院・西照寺・宗栄寺のような寺々に500年余の歳月の流れを想念しました。他の所では中世を偲ばせる遺構・遺跡は見つけられませんでしたが、強いて思いを馳せれば、人々の静けさ、優しさ、素朴さであります。この気質は、中世の下笠人(ビト)のそれであったことでしょう。室町幕府の弱体化が戦国時代をもたらし、人々は、親族さえ敵味方にわかれて殺戮しあい、農家・商家・蔵・城郭を焼き尽くしました。憎しみと破壊の後に何が残ったでしょうか。富は灰燼と化し、悲哀と後悔だけではないですか。戦いさえなければ・・・。いつの世にも言えることですが、人々は共存共栄しておれば、親子きょうだい、隣人、みな幸せを謳歌できます。問題が発生すれば武器を取るのではなく、時間をかけて解決すればよい。人間にはそれぐらいの知恵はあります。
日課のウォーキングで下笠へ出かけ、中世の老杉神社、お城、武士団、馬場、市場の賑わい、頭屋行事、人々の営みなどに想いを馳せながら、速歩のウォーキングを爽快に終えました。下笠よありがとう。
注釈
注 1.明治22年(1889年)4月の町村自治制の実施で「上笠、野村・平井・川原・駒井沢・新堂・集・下笠の大字八ケ村による笠縫村が誕生」し(川端2、7)、昭和30年4月1日、「大字~」は「~町」に(「大字下笠」は「下笠町」のように)変更され(出典:< https://www1.g-reiki.net/kusatsu/reiki_honbun/k007RG00000003.html >)、小字名は表記されず「下笠町〇〇番地〇〇」となった
(出典:< ttps://www.city.kusatsu.shiga.jp/kurashi/kosekizyuuminhyou/oshirase/shinchikutodoke.files/jusho_hyouki.pdf >)。
注 2.「古文書」によると「下笠」に「鎌倉時代中頃の文永年間に笠庄(カサノショウ)という奈良興福寺の荘園があっ」た(「滋賀県文化財保護協会< https://www.shiga-bunkazai.jp >TOP>新近江名所図会」)。
注 3.「戦国時代」の年代設定の出典:ウィキ「戦国時代」、「古典籍総合データベース」
< https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/ga_jhistory/history.html >)。
注 4.「佐々木信綱」の名は『吾妻鏡』の建保(ケンポウ)2年(1214)1月22日や7月27日の記事に現れます。たとえば、『吾妻鏡』の建保2年1月22日の記事に「1月22日 戊子 霽 将軍家鶴岡宮に詣でしめ給う(御束帯、御車)。伊賀の守朝光御劔を役す。佐々木左近将監信綱御調度を懸く。」とあります(出典:『吾妻鏡目次』< https://www5a.biglobe.ne.jp/~micro-8/toshio/azuma.html >)。
注 5.『応仁記』においては「六角四郎高頼」という名前がみえ、『滋賀県史』などは亀寿(「六角亀寿」)が元服して行高と名乗り、のち高頼と改めたとする(ウィキ「六角政頼」参照)。
注 6、応仁は「文正2年3月5日(1467年4月9日)」から「応仁3年4月28日(1469年6月8日)」まで。文明は「応仁3年4月28日(1469年6月8日)」から「文明19年7月20日(1487年8月9日まで。(「元号一覧日本」< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) >)。
注 7、ウィキ「六角政堯」に、六角政堯の「養子の虎夜叉が[・・・]文明5年(1473年)に守護職を政経に奪われ」たとあり、ウィキ「京極政経」に、京極政経(マサツネ)が「文明5年(1473年)に出雲・隠岐・飛騨・近江守護職に任じられ」たとある。他方、「1草津史593」には「六角政堯」の死後、後継した養子の名は「六角虎夜叉丸」とあり、彼が「文明3.11」に近江守護に就き、「文明5.9」(1473年)に退いた後、「京極治部少輔政高」が「文明5.9」に近江守護に就いたとある。
注 8. 出典:「広報りっとう< https://www.city.ritto.lg.jp/koho/2005/051_4.html >」。
注 9. 出典:川端41、57-58、60-61、「鈎の陣」< https://www.kaho.biz/main/magali.html >。なお川端氏58頁で「下笠氏系図」の写真を掲げ、「写真41 下笠伊豫守實親が、下笠五ケ村を足利将軍より下笠五カ村を賜ったと明記した部分の下笠氏系図」と記述するが、57頁で「下笠氏系図」に依拠して「下笠實親奉仕し一色兵助を討ち取り功をたてた報奨として、下笠五ケ村を知行するとあり。」と記す。「下笠實親」は「下笠美濃守實親(下笠左衛門尉實親)」であり、58頁で「下笠伊豫守實親」とあるのは系図記者の誤りと見なされる。
注10.『草津市史』第1巻593頁は「延徳元7~延徳元年10・・・」と記す。「延徳元年7月11日」は「長享3年7月11日、西暦1489年8月7日」(西暦和暦変換by gozaaru
< https://reki.gozaaru.com/wareki/%E5%BB%B6%E5%BE%B3/1/7/11 >))。 参考:延徳は「長享3年8月21日(1489年9月16日)から延徳4年7月19日(1492年8月12日まで)」(ウィキ「元号一覧 (日本)」、ウィキ「延徳」)「1489年8月21日〜1492年7月19日。」(goo辞書、コトバ「延徳」)
注11.「下笠左衛門尉六角殿方ニ而十一備(ソナヘ)の内又三家アリ」、すなわち「下笠左衛門尉が六角方の十一備の一家であった」(新谷128、130)。「備(そな)えは、戦国時代から江戸時代において戦時に編成された部隊」をいう(ウィキ「備」)。
注12.出典は川端58、60-61;「近江の城めぐり」< https://shiroexpo-shiga.jp/column/no61.html >[関津城]< http://yamajirooumi3.g2.xrea.com/2520101.html >も有益。 なお、新谷128頁に「下笠ハ元関津の宇野氏なり」の言及あります。
注13.下笠實親の名を「下笠美濃守實親または下笠左衛門尉實親」と記すとき、「美濃守」は官位(官途と同じ)、「左衛門尉」は官職です。ちなみに「官位(官途)は「主として戦国時代から江戸期にかけて、武士が任官または自称した」名をいい、「官職」は「日本の律令制下の官職のひとつ」をいう(ともに出典はウィキ)。 新谷130に「左衛門尉には兄弟があり、次男が中條、三男が宇野をそれぞれ名乗った」があります。
注14. 出典:川端41、57、89-90;1草津史688-89;「草津市:老杉神社」
< https://www.sigatabi.com/kusatu/oisugi.html >; 「滋賀県神社庁」
< http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=359 >。
参考:宝徳4年7月25日に「享徳」に改元されています。従って、宝徳4年は享徳元年でもあります(ウィキペディア「宝徳」参照)。川端氏に「宝徳4年(1452年)」(57頁)、「享徳元年(1452年)」(41頁)があります。なお、1草津史 688頁に、縦書きで「宝徳」の下に「二」が二つ並列されていますが、なぜ「四」と示されないのか分かりません。
注15.川端61に、美濃守長光は「六角氏と不和となり青地氏麾下」とあり、新谷130(原文128)により詳しく、「左衛門尉の嫡男長光は六角方と不和になり、正月朔日に攻められるが、後に青地方からの働きかけにより赦免される」とある。 「朔日(さくじつ)」は「陰暦で、月の第一日。ついたち。」(ウィキ)
注16. 出典:川端56;ウィキ「山岡景隆」参照。 駒井氏と青地氏は共に六角氏の一族であるとする情報源は1草津史480-81、500-508、611、659;ウィキ「青地氏」。
注17.出典:大津市歴史博物館< https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/jiten/data/161.html >;2栗太52。
注18.出典:新谷132-33。 上記引用文中の「下笠城の『城跡は、近世には下笠忠右衛門の宅地・・・』」の「城跡」について新谷はその出典を「『大日本地誌体系三 近江国與地志略 上」(大日本地誌刊行会、一九一五年)。」と記す。 前記「城跡は、…」の論及と類似する興味深い言及が『近江栗太郡志』(巻三、373頁)にある。「下笠古城 下笠村在、今下笠忠右衛門宅地是也、下笠信濃守が嫡男三郎左衛門弼實居城す、永祿九年青地駿河守茂綱と戰て死す、近世悉く堀等を埋田畑とす。(改行)と見へ享保の頃旣に開墾せらる、此地に八幡神社鎭座あり是れ同氏の守護神なり、近年老杉神社に合併す。」(『近江栗太郡志』巻三、373頁)「八幡神社」は城中にあったということか? 「下笠忠右衛門」と名乗る人物は下記のように複数存在します。「下笠忠右衛門尉正治」、「下笠忠右衛門尉利治」(川端61)。
5代宗治は下笠城破却にて隠密に出生。6代長右衛門尉種治、7代忠右衛門尉正治(膳所藩代官)、8代忠右衛門尉利治(下笠氏を名乗ること許される)。8代利治(光貞)以後、14代真栄(明治6年死去)に至るまで膳所藩の代官職を世襲する。(以上、川端61)。 なお、新谷131に「下笠の名乗り」の「定着」にかかわり、次の言及がある。
「これは、草津市下笠町の下笠忠右衛門家に伝来した文書であり、写真帳が滋賀県立図書館に架蔵されている(注4)。下笠忠右衛門は、江戸時代に膳所藩の郷代官をつとめた。郷代官は、在村のまま郡方役所の指導のもと民政に携わり、苗字を名乗ることを許された特別な百姓である((5))。同文書群には、代官の役料や屋敷地の租税免除に関する史料がいくつかみられる。宛所は下笠忠(註)右衛門や紋次などとある他、宇野忠右衛門とするもの(元禄六年九月二日付)もあった。これは、下笠家のルーツが宇野家にあるとする①の記述[「①の記述」略—筆者注]とも整合する。卯八月一六日付で榊原新八・村松伴右衛門が忠右衛門に宛てた文書によると、忠右衛門は先祖の名字である下笠を名乗ることを希望し、由緒の書付を膳所藩に提出している。下笠の名乗りが定着するのはそれ以降であろう。」
上記引用文中の(4)は「木下・下笠・宇野・飯田家文書写真複製版 草津市(請求記号一E―二一〇一―三八)。」、引用文中の(5)は「『草津市史 第二巻』(草津市、一九八四年)。」を意味する。なお川端61頁に「忠右衛門尉利治(8) 下笠氏を名乗るを許される」とある。 「郷代官」は「ごうだいかん」と読むのであろう。「膳所藩」には「農村支配機構」として「郡奉行―地方役-郷代官―村役人」があり、「郷代官は、農村に居住して身分的には百姓であるが、苗字を許されおり、郡方役所の指導のもとに民政に携わっていた。郡代官の任務は、管轄村々に触(ふ)れを伝達すること、各村からの届け・願い等を郡方役所に取り次ぐことであった。」(21草津史152-53)「忠右衛門という名前は何度も使われています。」(下笠氏談話)
注19.「下笠は、下笠城が落城後大きな改変があったのだろうか、今までの村は無くなり新しく下笠村が誕生し、その中に小字として、馬場・井ノ元・下出・市場・寺内・南出・小屋場・北出(?)が生まれる」とあります(川端6)。川端氏はこうも記しています。「上記してきた小字名は、下笠城が永禄9年(1566年)に滅んだ後の小字名で、それ以前の小字名であったのは確か(重複しているかも)であるのですが、ハッキリ分かりません」(川端41)。これらの記述は、下笠村は落城後、青地軍に焼き討ちされたか、とも想像させます。
宇野日出生によると、下笠地域の、「平成八年」現在の行政域は、従来は8地区であったのが、「近年の人口増による造成地域」の「小屋場浜・松原・松陽台」の3地域が加わり、11地区からなる(宇野日出生222)。これらのうち「松原は昭和初期に集落として成立し、浜は以前には小屋場浜と呼ばれており小屋場に属していたが、昭和28年(1953年)一つの集落として分離独立しました。」(川端40)なお上記宇野氏のいう「8地区」については本稿末尾に添えた「下笠町地域区分図」の、実線で枠取りされた部分を参照されたい。
注20.出典:川端77、5栗太461。 瀬田城主・山岡景隆の未亡人「長」が、夫の菩提を弔うためになぜ下笠に移り住んだのか確かな理由は不明ですが、あえて詮索すれば、山岡景隆と親密な仲であった関津城城主・宇野氏との親密な関係でありましょうか。その宇野氏の先祖に「関津(せきのつ)城」(関ノ津城;別名「宇野城」)・宇野源太郎守治(宇野源太郎守治)があり、彼から「10代目」にあたる人物が「実親」(下笠美濃守實親または下笠左衛門尉實親)です(川端60)。つぎの史料は宇野氏と山岡氏との密接な関係に言及しています。
ウィキ「山岡景隆」では「父:山岡景之、母:和田惟正娘」「妻 水野重久娘・山岡宗栄」だが、5栗田では「宗榮寺は笠縫村大字下笠にあり淨土宗なり、元和九年勢多城主山岡景隆の未亡人名は「長」宗榮尼歿しその菩提のため創建する所なり[・・・]尼は佐々木氏の臣水原河内守秀清の女なり、元和九年六月六日逝去し知光院賢宗榮と謚[おくりな―筆者注]す」(461頁)。上記「水原河内守重久の女」と「水原河内守秀清」は同人物と思われるが、名前の表記が異なる。どちらかに誤りがあるのだろう。
注21.出典:川端77;『近江栗太郡志』巻五、461頁。
注22.川端氏は「家臣永原河内守秀清の女」と記していますが(77頁)、筆者は『近江栗太郡志』巻五、461頁の記述に従って「家臣水原・・・」と記しておきます。
注23.出典は5栗太463。 なお川端氏には「西光院」は「文明13年(1481年)眞譽運阿彌の開基する所なり」(川端81)とあり、出典が異なるのだろうか。
参 照 文 献 表
略語
ウィキ ウイキペディア
宇野日出生 宇野日出生「村落祭祀の機能と構造 滋賀県草津市下笠町の
頭屋行事を中心に」、「国立歴史民俗博物館研究報告 第98
集』2003年3月。
川端 川端善二『ふるさと笠縫』平成22年(2010年)。
1草津史 草津市史編さん委員会編『草津市史 第一巻』草津市役所、
昭和56年。
2草津史 草津市史編さん委員会編『草津市史 第二巻』草津市役所、
昭和59年。
1栗太 『近江栗太郡志』巻壱
2栗太 『近江栗太郡志』巻貳
5栗太 『近江栗太郡志』巻五
新谷 新谷和之著「下笠覚書(大阪公立大学蔵) 」市大日本史. 25 巻,
pp.128-133. < https://www.i-
repository.net/contents/osakacu/kiyo/13484508-25-128.pdf >
村井 村井祐樹『戦国大名佐々木六角氏の基礎研究』思文閣、2012。栗東史 栗東史編さん委員会編『栗東の歴史』第一巻、平成6年。
付録
―地図4点
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著者紹介
寺内孝(ペンネーム “比良奥山” ヒラオウザン)は在野の研究者です。19世紀イギリスの国民的作家チャールズ・ディケンズの研究と聖書の研究をしています。なぜディケンズと聖書か。英国はキリスト教を国教とする国家であり、チュールズ・ディケンズは英国国教会(Anglican Church)の真摯な国教徒だったからです。彼は毎日、神のみ前でこうべを垂れ、朝夕の祈りを欠かしませんでした。イギリス人を知るには聖書を知る必要があります。
著書
『英国一周鉄道知的旅日記』ブックコム、2008.
『チャールズ・ディケンズ「ハード・タイムズ」研究』 あぽろん社、1996.
『簡素への誘い』日本図書刊行会、2001.
『神の成長――古代ユダヤ教とキリスト教の神の研究』あぽろん社、2002. 絶版
『キリスト教の発生―イエスを超え、モーセを超え、神をも超えて』奥山舎、新装版2021.
Revivalism and Conversion Literature:From Wesley to Dickens. Hon'sペンギン、2005.
Charls Dickens: his Last 13 Years. ブックコム、2011.
復刻
Stonehouse, J. H., ed. Catalogue of the Library of Charles Dickens from Gadshill …Catalogue of the Library of W. M. Thackeray… (London: Piccadilly Fountain Press, 1935). Reprinted in October 2003 by Takashi TERAUCHI.
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