「アール・ブリュット」という言葉:画家デュビュッフェによる命名
まず「アール・ブリュット」という言葉は、いつどこで生まれたのでしょうか。
この言葉を考案したのはフランスの画家ジャン・デュビュッフェ(1901-1985)です。デュビュッフェはハンス・プリンツホルンの『精神病者はなにを創造したのか』を通じて精神病院での創作活動に興味を抱き、1945年にスイスの精神病院を訪問して作品を鑑賞。この時の作品には、後にアール・ブリュットの「巨匠」とも呼ばれるアドルフ・ヴェルフリやアロイーズ・コルバスなどがありました。
『評伝 ジャン・デュビュッフェ』(末永照和、2012年)によると、デュビュッフェが「アール・ブリュット」という言葉を最初に使ったのは1945年8月、旅先から送った手紙の中です。
「アール」は英語で言うアート(Art)、「ブリュット」は生――加工や処理が行われていない状態を指します。宝石の「原石」などですね。日本語で「生(き)の芸術」と呼ぶのは「生糸」や「生成り」からの連想だと思います。デュビュッフェの実家がワイン卸業を営んでいたことから、シャンパンの「シャンパーニュ・ブリュット」(糖度が低めの辛口シャンパン)から発想を得たのではないかと言われています。また上掲書には、アントナン・アルトーによる映画評論に記された「シネマ・ブリュット(なまの映画)」も発想のヒントではないかと書かれています。
デュビュッフェは当時の芸術文化やそれを支える体制に批判的で、『文化は人を窒息させる』という著書もあるくらいです。そういったものに汚染されず、純粋に自分の内面から生み出された「生」の芸術に価値を見出したのでしょう。
それ以前、たとえばシュルレアリスムを提唱したアンドレ・ブルトンはこれらの作品を「狂人の芸術」と呼んでいました。現代では即NGな表現ですが、当時はどうだったのでしょう。
これに対し、デュビュッフェは「狂人の芸術」などない、と真っ向から反論。「消化不良患者の芸術や、膝の悪い人の芸術というものが無いと同様に、狂人の芸術というものはない、というのがこの問題についてのわれわれの立場なのだ」と主張します。「」内は上掲書p.119からの引用ですが、原典は1949年に出版された小冊子『文化的芸術より好ましいアール・ブリュット』とのこと。
さてデュビュッフェはスイス旅行を終えるとフランス国内の精神科病院ともコンタクトを取り、1948年には「アール・ブリュット協会」を設立し、作品収集を始めます。
しかし、それまでは「芸術作品」として扱われて来なかった作品たちです。収集する作品の選定基準、協会の運営、作品を世に広めることへの迷いなど、さまざまな難題があったようです。また、デュビュッフェは何といっても本業が画家ですから、収集ばかりではなく自分の作品も制作しなければなりません。
というわけで色々な紆余曲折はありましたが、晩年のデュビュッフェは自分の死後にも作品を管理してくれる機関を探し、最終的にスイスのローザンヌ市との間でコレクション寄贈の契約を取り交わします。コレクションはスイスに運ばれ、1976年に「アール・ブリュット・コレクション」が開館しました。
デュビュッフェはこの「アール・ブリュット」という言葉の使用を制限しており、展覧会に際して使用を許可しなかったこともあったようです。そのため、「アール・オリジネール」など代替的な名称がいくつか生まれましたが、結局はロジャー・カーディナルによる「アウトサイダー・アート」が最もメジャーな呼称となりました。
次回はその「アウトサイダー」という言葉に注目してみようと思います。
参考文献
『評伝 ジャン・デュビュッフェ』末永照和著 青土社 2012年
『アール・ブリュット アート 日本』アサダワタル編著 保坂健二朗監修 平凡社 2013年
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