「アウトサイダー・アート」という言葉は、英国の美術評論家ロジャー・カーディナルが1972年の著書タイトルとして使用しました。その後、前回書いたようにデュビュッフェが「アール・ブリュット」という用語の使用を制限していたという事情もあって、代替の用語として急速に広まっていきます。
カーディナルのこの著作は邦訳版がありません。原書も現在入手困難となっており、Amazonで検索するとすごいお値段になっています(2024年10月26日現在30,855円)。
というわけで、この本は読んでいません。カーディナルさんがどのような意図を込めて「アウトサイダー・アート」と命名したのか、他の情報源を探してみました。
カーディナルさんは2019年にお亡くなりになっているので直接聞くことはできませんが、晩年に教え子さんからインタビューを受けた記事があります。
そのままフランス語のArt Brutを使うのではなく、直訳してRaw Artとするわけでもなく、Outsider Artという用語を創出した意図は何だったのか。インタビュー内で明言されたわけではありませんが、次の言葉がヒントになるかなと思いました。「マクドナルド」は、聞き手のロジャー・マクドナルドさんです。
マクドナルド: あなたの著書である『アウトサイダー・アート』は、デュビュッフェに比べると、より寛容で柔軟な立場を取っているようにも思います。カーディナル: 私はまず、人々にデュビュッフェを知ってもらいたかったのです。〈略〉しかし、大きな意味ではデュビュッフェが先に示したアール・ブリュットに、深みを与えることはできたと思います。彼の考えを英語にし、本のタイトルにふさわしいフレーズを探したという部分においても、私は彼の翻訳者だったと言えるでしょう。――アーティストではないアーティストとは。〈略〉マクドナルド: 〈略〉歴史を振り返ってみて少々不思議に思うのは、アール・ブリュットという言葉を残したまま、アウトサイダー・アートという言葉は、アール・ブリュットを超えて成長したというところです。
“アウトサイダー・アート”の生みの親、 ロジャー・カーディナルに訊く(2) 私は個人的に「アウトサイダー・アート」は「アール・ブリュット」を含み、さらにそれ以外の要素も含む幅広い使われ方をしていると感じていましたが、やはりその印象に間違いはなく、また日本語圏だけの話ではなさそうだということがわかります。
また、デイヴィド・マクラガンの『アウトサイダー・アート 芸術のはじまる場所』(2011年、青土社)によると、カーディナルさんは本を出した7年後にこういうことも言っていたようです。註釈も含めて引用してみましょう(引用部分で太字にした部分は、実際にはイタリックです)。やはりデュビュッフェさんと異なり、カーディナルさんの意図として「これこれこういう人を『アウトサイダー』とする」という厳密な定義はなかった――むしろ、敢えてしなかったのではないかと思われます。
早くも一九七九年、ヘイワード・ギャラリーの「アウトサイダー」展の主催者ロジャー・カーディナルは述べている。「結局のところ、アウトサイダーなるものは実際には存在しない。いわゆる〈一般市民〉など存在しないのと同様だ。ただ、存在するのはそれぞれの個性の発酵――すなわち、匿名性や一般化の対極に位置するものである*6」 *6 Roger Cardinal, Outsiders , exh. cat. (London, 19790, p.36.
マクラガン『アウトサイダー・アート 芸術のはじまる場所』p.192, 註022 次に服部正『アウトサイダー・アート』(2003年、光文社新書)を見てみましょう。1972年当時すでに「アール・ブリュット」イコール精神障害のある人の作品、という印象はあったようです。
アウトサイダー・アートやアール・ブリュットという言葉が出てくる以前には、精神分裂症の芸術 (schizophrenic art) という呼び方や精神病理学的美術 (psychopathological art) という呼び方も用いられていた。精神科医たちの影響を受けたデュビュッフェが収集したアール・ブリュットも、その多くが精神障害のある人の作品である。だからこそロジャー・カーディナルは、障害のある人の作品に注意が集中してしまうのを避けるために、アウトサイダー・アートという語を用いたのである。
服部正『アウトサイダー・アート』 p.25 Daniel Wojcik さん(名前の読み方がよくわかりません。ダニエル・ヴォイチク?)による "Outsider Art: Visionary Worlds and Trauma" (2014年、University Press of Mississippi)には次のような記述があります。 (以下2つの引用文では、原文に続けて私の試訳を記載しました。間違いがあったらごめんなさい)
For Dubuffet (1901–1985), art brut (“raw art”) was made by people free of formal artistic training, whose production was “untainted” by the culture of the academy and existed outside of or against cultural norms. Whereas the French connotation of brut as Dubuffet used it is “raw,” “unfiltered,” or “unadulterated and pure,” for most English speakers it suggests “brute” or “brutal,” and the word “outsider” was recommended as an alternative English equivalent. However, the term outsider art has now taken on a meaning and life of its own, often very different from the original intention of Cardinal, who followed Dubuffet’s lead. デュビュッフェ(1901-1985)にとってart brut(生の芸術)とは、正式な美術教育を受けていない人々によって作られ、彼らの作品はアカデミーの文化に「汚されて」おらず、文化的規範の外部にある、またはそれに反するものだった。デュビュッフェが用いたフランス語「brut」は「未加工の」「フィルタリングされていない」「混じりけがなく純粋な」という意味を含んでいるが、英語話者の大半にとっては「brute(野蛮な)」または「brutal(残忍な)」という言葉を想起させるため、対応する英単語として「outsider」が推奨された。しかし「アウトサイダー・アート」という言葉は、今では独自の意味と生命を持つ存在となり、デュビュッフェの後を追うカーディナルの元の意図とは大きく異なることが多くなった。
Wojcik, Daniel. Outsider Art: Visionary Worlds and Trauma (p. 20). University Press of Mississippi. Kindle Edition. 上記は、第1章 "Inside the Art of Outsiders" からの引用ですが、この文章の直前に、outsider artという言葉はカーディナルの本のタイトルから広まったという説明があり、そこに注釈がつけられていたので、それも引用します。
Although the term “outsider art” is attributed to Roger Cardinal, apparently it was actually coined by an editor at Studio Vista, the publishing house of Cardinal’s book, who found the connotations of the word brut as in Art Brut (i.e., brute, brutal) unsuitable as an English book title. While the problematic assumptions underlying the “outsider” label are delineated throughout this study, the overall intent of this project is in agreement with Cardinal’s stated view of creative activity: “What one should seek is not to analyze the product so much as to attune oneself to the creative process; not to spot masterpieces but to respond to the vitality of the expressive act itself” (1972: 53). 「アウトサイダー・アート」という用語はロジャー・カーディナルに帰属するが、これはどうやらカーディナルの本を出版したStudio Vistaの編集者による造語のようだ。この編集者は、アール・ブリュットの「brut」という言葉が暗示するもの(つまりbruteやbrutal)が英語の書籍タイトルにふさわしくないと思った。「アウトサイダー」というラベルの下の不確かな仮定については本研究全体を通じて詳述されているが、本プロジェクトの全体的な意図は、カーディナルが述べた創作活動についての見解と一致している。「人が追い求めるべきことは、作品を分析することではなく、創作のプロセスに自分を合わせることだ。傑作を見つけることではなく表現行為自体の生命力に応えることだ」(1972:53)。
Wojcik, Daniel. Outsider Art: Visionary Worlds and Trauma (p. 240). University Press of Mississippi. Kindle Edition. フランス語のbrutという単語、英語圏では語感がイマイチなようですね。
次に、『突き上げる創造力 アール・ブリュット―生の芸術展』の図録に収録されている「アール・ブリュット略史」(クリストフ・ブーランジェ、ジョエル・ピジョディエ=カボ)には次のような文章があります。
1972年、ロジャー・カーディナルのアール・ブリュットに関する著書がロンドンとニューヨークで出版されることになり、出版社はアングロ・サクソンの読者のための名称を考案するよう作者に提案した。カーディナルが選んだ「アウトサイダー・アート」という言葉は、そのまま本のタイトルにも使われることとなった。現在アメリカにおいて、収集家や画商らによって引き続き使われているアウトサイダー・アートという呼称には、アール・ブリュットやフォーク・アート、いくつかの人種社会のアートや、ナイーフ・アートなどが含まれる。
『突き上げる創造力 アール・ブリュット―生の芸術展』図録 p.22-23 上記の表現からは、出版社の編集者さんがいくつかアイデアを出し(あるいはカーディナルさんも一緒になって考えて)、その中から最終的にカーディナルさんの責任において「アウトサイダー・アート」を選んだという状況が読み取れます。なぜこの言葉なのかという理由については、上に引用したインタビュー記事にある「アーティストではないアーティストとは」という文言がヒントになるような気がします。
今回は引用が多くなりました。まとめると、ロジャー・カーディナルはデュビュッフェの「アール・ブリュット」を英語圏に紹介するにあたり、英語話者にわかりやすい訳語を考える必要があり、またデュビュッフェの定義にとどまらず他の要素も含めようと考え、出版社と話し合って「アウトサイダー・アート」という言葉を選んだ、ということですね。そして私の印象ですが、カバー範囲を広げるために、厳密な定義を敢えて避けたのではないかと思いました。
参考文献
#アール・ブリュット #アウトサイダー・アート #ロジャー・カーディナル