自分のモノサシで決める尊さ【挑戦者・羽生結弦】を素直にカッコいいと思えるようになるまで
北京冬季五輪が開催され、各選手の活躍が連日世間をにぎわせている。
そんな中、ぼくが強くひかれたのは羽生選手だ。
4回転半ジャンプ(クワッドアクセル)に挑戦したものの、怪我の影響もあってか、惜しくも最高の結果とはならなかった。
最初に断っておくが、何も自分は羽生選手のアンチだったが、北京冬季五輪を通じて、それがかわったとかそういう話をするつもりはない。
「よく知らなかった」というのが正直なところだ。
(すみません)
新聞やニュースで羽生選手の名前はよく見かけるので、彼がすばらしいフィギュアスケートの選手であり、そして極めて優れた実績を残してきた、というくらいのことしか知らなかった。赤の他人の僕には彼のパーソナリティはわからないし、演技の技術的な凄さは素人のぼくには想像もできない。彼について少し調べた今でも正確なことはわかっていないかもしれない。勘違いもあるかもしれない。
それでもなにか強く刺激されるものを感じたので、思いついたことを書き留めておきたい。
羽生選手に対して、特段の印象も抱いていなかったぼくだが、今では、シンプルに彼のことを「カッコいいな」と思うようになっている。
(にわかファンになってしまったのかもしれない)
そして、かつてのぼくでは、この「カッコよさ」は理解できなかっただろうとも思う。
羽生選手は、前回、前々回の五輪では金メダルに輝き、三連覇が期待されていた。SP(ショートプログラム)ではやや出遅れて8位だったものの、フリーでは圧巻の演技で4位につけた。
超大技へのチャレンジを見送り、連覇やメダル獲得を優先した「勝ちにいく」戦い方もあったと思う。
しかし、彼はそれをしなかった。
「クワッドアクセル」という前人未到の領域に挑戦し続けた。
昔のぼくならば、それを冷ややかに見ていたかもしれない。
『「勝つこと」が重要だ。「負けたとき(連覇できなかったとき、メダルを獲れなかったとき)」の言い訳づくりのために、わざわざこんな無謀な挑戦をしたのだ。』
そんな風に思っていたかもしれない。
(性格が悪い)
でも、今回の彼の挑戦を、ぼくは素直に「カッコいい」と、思った。
なぜだろう。
このカッコよさはどこからきたのだろう。
結論からいえば、「『勝利』とは何かを自分のモノサシで定義し、それにこだわったこと」、そこに彼のカッコよさがあると思う。
ぼくたちは、誰かの決めたモノサシで評価されることに慣れている。
学校では、テストという誰かが決めた試験の枠組みの中で点数をつけられ、順位付けがなされる。今まさに受験生が必死になっている入試だってそうである。
部活動や今回の北京冬季五輪のようなスポーツの世界でも、誰かの決めたルールや基準に則った評価がなされ、それにより決まる優劣に一喜一憂する。
誰かの評価にこだわるのは、必ずしも悪いことではない。何かに打ち込む格好の理由になるし、レベルアップへの強いエネルギーにもなる。特に若い頃はそうかもしれない。
しかし、その弊害なのか、ぼくらは自分で自分を評価することに慣れていないように思う。自分の「モノサシ」をもっていないことが案外多いものだ。
モノサシがなければ、何が自分にとっての「勝ち」なのか、自分で定義できない。
仮にそれを定義できたとしても、周囲の目という雑音に負けてしまうことはままある。自分のモノサシにこだわり続けることは、現実ではとても難しいことのようだ。
それでも、彼は、自分の決めた「勝ち」にこだわり抜いた。
自分のこだわりを捨てずに、かつ、結果も出す、という理想の結末には至らなかった。その意味では確かに「努力は報われなかった」のかもしれない。
だけど、報われるためだけに、挑戦するわけでもない。
そうも思うのである。
自分のモノサシで決めた、自分の勝ち方。
それにこだわり、走り続けるそのプロセス自体が、自分を「自分らしく」してくれるのではないか。他の誰でもない、自分を象徴してくれるのではないか。
時間が経てば、自分にとってはかけがえのない尊い時間だったと思えるのではないだろうか。
それをバネにまた「自分の勝負」をする勇気を与えてくれるのではないだろうか。
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