中上健次論(0-3)オリュウノオバの『エチカ』

言葉は意味の伝達手段ではないと吉本隆明は言う。
その通りだと思う。文字も声も。
言葉を覚えたことを後悔する詩人がいた。
ひとりでは生きていけないことの宿痾として言葉に放下されても。


オリュウノオバは『奇蹟』のなかでの在りかたこそが夏芙蓉の甘い香りのように有り難い。

路地の三朋輩のひとりであったトモノオジの幻覚に現れるオリュウノオバ。産婆であるオリュウノオバが礼如を尊敬しているのに威張っているのが楽しくも美しい。

老若の区別なくいつか尽きる命に成仏を祈る礼如よりもすべての命を愛で抱きしめるオリュウノオバの慈悲の方が功徳が高そうなのも素晴らしい。
作品論からは『千年の愉楽』の評価が高いのだろう。『奇蹟』は近代小説の規矩を超えた文体が採用されている。オリュウノオバは生死も時代も無効にしてすべてを「肯定」する。
以下の引用の如く。

オリュウノオバはいつも女の腹から顔を出す子に言った。何でもよい。どんな形でもよい。どんなに異常であっても、生命がある限り、この世で出くわす最初の者として待ち受け、抱き留めてやる。仏が生命をつくり出す無明にいて、人を別けへだてし、人に因果を背負わせる悪さをしても、オリュウノオバは生命につかえる産婆として、愉楽に満ちたこの世のとば口にいてやる。

『奇蹟』中上健次

オリュウノオバの正真正銘の本心である。清濁も正邪もない。前近代でも近代でも脱近代でもない。
オリュウノオバ以外にこの発言に実感を与え得る存在があろうか。
モデルがいるとはいえ虚構の人物でしかないオリュウノオバだが中上の作中で実在を超えて死してなお幻覚のなかでも存在感を放つ。『奇蹟』が奇蹟的に成立しているのはオリュウノオバを導入しているからだ。
タイチの悪業に本気になって怒りを爆発させるのもオリュウノオバでこそ現実感を維持できる。


『奇蹟』に於いて、オリュウノオバはひとりの人格を超えて「現実界」である。「想像界」「象徴界」ではない。生命は誰かが左右できる事象ではないからだ。
「ヒロポン」でも「拳銃」でもない。「路地」に「倫理」を実装し得るのはオリュウノオバだけである。
スピノザに跳ぶ。

人間というものが一般に自己の衝動の原因を知らないからである。すなわち、すでにしばしば述べたように、人間は自己の行為および衝動を意識しているが、自分をある物に衝動を感ずるように決定する諸原因は知らないからである。

『エチカ』スピノザ

『奇蹟』に於いて「オリュウノオバ」は「路地」の掟であり、「倫理」であった。
「倫理」とは愛しさの別名である。