稀有な「戦争文学」として『さようなら』を読む
小説家であろうとなかろうと人に記憶という機能があるなら、それは何度でも上書き可能なモノになるでしょう。田中英光の『さようなら』は遺書であると同時に英光の記憶に纏わる「作品」でもあります。
英光が経験した「さようなら」の最後に自分自身の「さようなら」を連結することで死の連鎖を断ち切る為に書かれた稀有な遺書であります。
太宰治の墓前で自死したのは感傷でも唯物論でもなく「魂の唯物論」(蓮實重彦の語彙)だと思います。
作品は「さようなら」の酷薄な含意を説くことから始まり英光の経験した「さようなら」としての死別が綴られていきます。親族、友人、そして死別ではありませんが女性との別離へと。
私は『さようなら』を空前絶後の「戦争小説」の傑作だと認識しています。
そして補充兵として応召された戦線での経験が英光の特異な死生観を齎し、未来だけではなく過去の「さようなら」をも上書きしてしまったと見立てています。
前線や軍隊内での実体験を小説に昇華した作家の誰と比較しても類例のない死生観は作品を容貌魁偉にしています。
しかし、私にはこの比類のなさに初対面ではない。文学ではない何処かで、遭遇している感触がありした。
記憶の糸を手繰り寄せて辿り着いたのは映画『タクシードライバー』の主人公トラヴィスでした。
そうです、英光はベトナム帰還兵の病み方に似ていると思いました。
勿論、年代的に言えば英光の方が先です。しかし、第一次世界大戦後の帰還兵にフロイトがタナトスを見出したように英光は行軍中に以下の認識を会得します。
当り前の認識だと思われるでしょうか。田中英光という作家固有の問題ではないと思います。