【随筆】ある意味羨ましい志賀直哉の俺様主義
太宰治が志賀直哉に喧嘩を売ったのは有名な話だが、太宰言わせれば売られた喧嘩を買ったのであって、志賀が余計なことを言ったのが原因だというだろう。
私は太宰の言い分を支持するけども、志賀は喧嘩どころか聞かれたから正直に答えただけで、太宰など端から歯牙にもかけてはいないだろう。
太宰が『如是我聞』で志賀に浴びせた罵倒ほど適確な志賀直哉評は無いと思う。
太宰の功績のひとつに罵詈雑言こそが正確な人物評になる「小説家」の存在を証明したことを加えたくなるほどである。
しかし、相手が悪かった。自己肯定感の化身である志賀直哉に他者の言葉が届くことはありえないことだった。
承認を求めて彷徨う人々で溢れる昨今では信じられないかもしれないがこの「小説の神様」とまで言われた志賀直哉は絶対的な自己肯定感だけで精神が形成された怪物なのだ。不幸にも文学とは無縁な資質が文壇の一画に鎮座したのだ。
しかも志賀とは対極の資質を具えた太宰治という個性と重なる時代にである。
何たる意地悪な「小説の神様」よ。と天を仰いで嘆いてみても既に「小説の神様」は地上に降臨してしまったのだ。残念。文壇の本地垂迹的悪夢である。
罵詈雑言といっても志賀には理解できなかったと思うし、感情が揺さぶられることは毛ほどもなかっただろう。
そこに太宰の朋輩である坂口安吾は『志賀直哉に文学の問題はない』で援護射撃を敢行した。
安吾と太宰は文学史上「無頼派」に分類されているが、計らずも志賀直哉への批判に於いて二人の違いが浮き彫りにされたのは興味深い。
肌理細やかな感情に主軸を置く太宰。
空虚な底意に大胆な論理を刻む安吾。
世故にたけているのは太宰であって、実は安吾の方が「理想主義」的なのだ。
志賀直哉の「俺様以外はすべて景色」「正誤でもなく、真贋でもなく、行動規範は俺の気分」な天性の資質を持つ人間にも尊敬する人物が三人いるのだがその一人が武者小路実篤である。無敵である。プロレスに例えたいが今は止めておく。
志賀直哉は尊敬されていた。
立派な人なのだ。たぶん。
だが安吾の言うように「文学の問題」ではない。