共感性の水源と河口を巡る
言葉による共感はあるのか。
理性やら知性やらは認識の範疇であり感性と同じとは言えない。
科学は属人的ではないので検証が可能だが、小説や音楽やらは個人的な好みに託されるので評価は別れるし、別れたところで誰かに迷惑をかけることはほぼない。
そんな塩梅で考えたのが「三大批判の書」になりそうだが、『純粋理性批判』と『実践理性批判』に比べて『判断力批判』は難解にも程度があるだろうと思う。
すべて難しいのだが言いたいことはなんとなく、ぼんやりと、ほの暗く伝わってくる気がする。(分からないに限りなく近いのだが)
それにしても『判断力批判』は難解だ。
哲学が無闇に難解であることを批判するむきがあると不当な言いがかりだと思うのだが『判断力批判』に対しては挑む度に転びたくなるほど難しいし、何を言いたいのかが分からない。
「近代に於ける美の限界」の周囲を公転している雰囲気が淡く伝わってくる。
カントは英語圏にも微かに届いている稀有なドイツ語の哲学者らしいのだが(ヘーゲルやハイデガーはどうなのかね)頭文字の発音が区別できないので日本語圏では「カタカナ」の「カ」であることに日本語の素晴らしさを感じる。
日本語には「ひらがな」を賞揚する文化的素地があると思うが公的な文章が「カタカナ」であったことも忘れてはいけなと自戒しております。
閑話休題
と、いきたいが主題があるわけでもないのでアーレントか柄谷行人の『トランスクリティーク』を読み返したいとフッと思った。
『判断力批判』を美学の書として読まなければいけないと決まっているわけではなさそうな気はしている。
複数の主体の問題と解釈して政治制度、民主体制との連関の話しと取る方が方が極私的にはフックになりそうではある。
いつも通りタイトルと内容が無関係ではありますがあしからず。