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「普通の権力者」とは?

はじめに


 「普通」から外れることの恐ろしさ、恐ろしさの正体とはいったい何なのでしょうか。

 社会で一般的にマイノリティと呼ばれる人々や、そうでなくとも好きな音楽や映画が個性的であったり、ファッションが流行とは外れていたりといった、わずかな個性であってもそこに生きづらさが発生するのは何故なのでしょうか。

 本文によって、「普通の権力者」という概念を導入することで、一般から外れた人々が一種の生きづらさを感じるメカニズムについて読んでくれた方が考えるヒントになれば、と思います。

 また、本文のスタンスは人々の間に普通の権力者がいるのだ、と断言するというより、世の中で起こることはこういった視点でとらえることが可能である、という見方の一種を示すことで、それを材料とした考え方ができるよう提案する、というものです。
 リンゴが地面に向かって落ちていく、という現象を、「地球がリンゴに向かって移動した」とも、「質量をもったリンゴと地球が引き合っている」とも、見ることができるように、一種の視点の変換を促すものです。

普通の権力とは

 ここで紹介する普通の権力者、これはnormalな権力者やnormalな権利の行使者という意味ではなく、「Power of normal」を行使する者、という意味です。
 では、その「普通の権力」とは何なのでしょうか。
 それは、「普通である」ということそのものです。

 例を出してみましょう。
 ある時、私が複数人で遊んでいる時、友人の一人に勝手に写真を撮られたことがあります。
 私はインターネットに上がったデータの回収が難しいことや、昨今のプライバシーの不安などから、撮られた写真に対して「顔が映っている写真は、SNSに上げないでほしい」と頼みました。

 そのとき、写真を撮った友人を含めた周りの人たちの反応は、
「なんでそんなこといちいち言うの」
「めんどくさ」
「みんなはいいって言っているのに」
という、かなり敵視するような言われ方でした。

 肖像権やインターネット倫理から考えてみても、ネットに上げないでほしいと主張して、ここまで言われる筋合いはないはずです。

 その他にも、寒いからと10月にコートを着ている人に「まだみんなコートを着ていないからやめたほうがいい」という言説や、相手からの発言に傷ついたからやめてほしいと表明した時に、「この程度のことで怒るなんて」と反応される場合、「お前の好きな曲気持ち悪い」と発言するにもかかわらず「君の好きな曲も気持ち悪くないか?」と返すと激怒する人、他人ができないことに対して「何でこんなこともできないのか」と言う人、疑問を投げかけたときに「普通そうじゃん」と言って説明を完了したと言わんばかりの人…

 こういった状況でよくよく考えてみると、こういった言説にさらされる側の人達を悪とする論理的な説明はほぼないはずです。にもかかわらず、悪者とされてしまっています。

 いま挙げた例のように、
「みんなそうだから」
「普通はそうだから」
「みんなそう思ってる」
と主張し、それを周りの空気感をもって“正しさ”にすることができる人達がいる、と分かるかと思います。
 私が日ごろ「お前の好きな曲気持ち悪いんだよなあ」と言われているからといって、その分他人に「君の好きな曲気持ち悪いよね」というと、「失礼」とか「何言ってんだ」と非難轟々となってしまうでしょう。
 お互いの同意の上にない“正しさ”を作り出せる側と、その“正しさ”を押し付けられる側。この非対称さはには、一種の権力勾配があると思われます。

 この、「根拠を『みんな』と『普通』によって正しさを規定できる権力」こそ、普通さの持つ権力、普通の権力であり、これを行使することができる立場の人間が「普通の権力者」なのです。

 この権力は本当に強力です。例えば、「キモイ」という言葉を想像してください。この言葉には、相手を自分の価値観で一方的に否定した挙句、「私を不快な思いにさせたお前は悪である」と、正義までも我が物に出来てしまうのです。

 ここで、本文における「普通」とは、あくまでも「多数派の正しさ」を意味するものであることを書き添えておきます。
 筆者も、「普通」などというものは実際には存在せず、相対的なものであって、ところ変われば品変わり、普通とは何かも変わっていくことは理解した上で、あえて「普通」の語を使っています。

普通の権力者とは


 ここまでで、「普通の権力者」というものがどのようなものであるかは示せたかと思います。

 ここからは、この普通の権力者や、普通の権力によってもたらされる生きづらさについてもう少し考えてみようと思います。

 普通の権力者とはどのような人達なのでしょうか。

 普通の権力者の人たちは、普通であることと正しいということを同一視する人々です。また、自身にも普通であることを課すので、多少の個性はあれど基本的には「みんなと同じものが好き」「みんなと同じ意見」「みんなと同じ感性」という基本方針があります。
 何が正しいのかを周りを参照して決定するので生き方を実践する人々です。


 当然、普通の権力者となる人は当然、普通の中にいます。
 同調圧力の社会の中で自我の発露を抑える訓練を繰り返し続け、ついには普通であることを内面化した人たちです。

 つまり、悪目立ちしないようにと生きてきたために感性が「みんな」と同化し、自分の意志=みんなと同じとなっている人たちであり、なおかつそれについて自覚がないという状態です。
 簡単に言うと、「本当はAがいいけど、みんなはBって言っているし…」ではなく、もはや「みんな言ってるしやっぱBだな」とスムーズに自分の意見とみんなの意見が一致するように人格や考え方が形成されている状態です。

 もちろん誰でも、筆者も含め、環境から影響を受けて価値観、思考、感覚が形成されています。
 筆者自身、ジェンダーの知識やキルトの知識があっても男性として育ってきたことでスカートよりかはズボンのほうが履こうと思いますし、文化相対主義を知っていてもカブトムシの幼虫の天麩羅を出されたらと少しウッとなります。

 筆者は、人間の意識が100%自分の意志のみで湧いてきていないことは認識し、それを問題視は全くしていません。
 しかし、今回話題にしたいのは、こういった特性があまりにも他人に合わせる方向に進んでいった結果、「みんなと合わせる」という行為が完全に無意識化に内面化された人のことなのです。
 みんながBと言っている時、「私は自分の意志でBと思っているんだ」と感じつつ声高にBと主張する人々なのです。

 かつて孔子は「七十にして己の欲する所に従えども矩を踰えず(七〇歳になってからは、心の欲するままに行動しても道徳の規準をはずれるようなことがない)」と説きました。
 普通の権力者であることは、一種の従心なのではないでしょうか。

 無意識レベルで「みんな」と価値観が一致しているので、本人たちの視点では思うままに行動しても普通の規範から外れることがありません。
 私が思っている、みんなも思っている。それ以外の意見は思いもよらない。
 皆がAでよいと言っている(=自分もAでよいと思っている)のだから、つまりAが真理で正義なのだという論法は、普通の権力空間では矛盾がないのです。

本文の基本姿勢

 ここまでの文章で、ある程度私の提唱する「普通の権力者」という人々の輪郭が見えてきたかと思いますので、これを踏まえ、一旦ここで私のスタンスを示したいと思います。

 ここまで読まれた方は、「この文章は多数派、普通、という概念を悪の権力者呼ばわりして完全否定し、反普通権力を正義とする主張をしている」と感じる場合があると思いますが、これは明確に否定します。

 あくまで目的は言語化です。筆者自身も「普通」という共通認識を便利に使ってコミュニケーションはしていて、普通を悪としたいわけではありません。

 例えば、科学は科学的手法をもって世界の説明書を作って世界を理解し、自分なりの正しさをもって行動する考え方です。科学の手法によって、医学を肯定し、車に乗り、経済学に従って社会保障を肯定していくわけです。
 同様に、宗教は、聖典の内容世界の説明書を作って世界を理解し、自分なりの正しさをもって行動する考え方です。
 何を正しいとして、どうやって行動を決定するのかは、様々な作法があります。

 ここで、「普通」も、世界の説明書を作って世界を理解し、自分なりの正しさをもって行動する考え方という意味で同列であり、科学と倫理的には並行を成すものだと考えていいます。
 科学的手法や論文を参照して正しさを見つけ出す科学世界、聖典や超自然的存在の哲学を参照して正しさを見つけ出す宗教世界と同じように、「普通世界」もあるのではないかと思います。
 普通世界は、みんながそう思っているならそれが真、という世界理解なのではないでしょうか。

 こうして「普通世界観」を言語化し理解することで、この世に発生している生きづらさや諸問題を切り分け、普通世界観を採用していない人の生きやすさのヒントにしたい。
 そして、普通の権力の持つ暴力性にもっと意識的になってほしい。
 これが本文の目的なのです。

閑話休題。

 そういうわけで、普通の権力者の人たち、として同調圧力を捉えなおして分析してみると、俗にいう「出る杭は打たれる」もこれによって新しいとらえ方で見えてきます。
 科学の世界観では、非科学的なものは否定されます。2021年現在、反ワクチンは否定されているし、幽霊はオカルトとして扱われているし、私が急に「ブランデーのラッパ飲みは癌に効く」などと言っても捨て置かれるでしょう。
 同様に、宗教の対立もこのようなメカニズムで捉えられます。各々の聖典に書いていない、又は否定されているものを認めることは容易ではありません。

 普通の権力者たちは、「みんながAだと思っているのにBだという人」が理解できない世界観にいます。
 この場合、拒絶しかできません。その表れが「うるさい、キモイ、めんどくさい」で、「出る杭は打たれる」という現象なのではないでしょうか。

普通とは何か


 ここまでで、普通の権力者論考は終わりです。
 ここからは、「普通」とは何かを考えてみたいと思います。
 先ほど述べた通り、「普通」の世界観では、全員が「みんなと同じ」と考え行動しています。
 すると、この普通はどこからやってくるのか?という疑念が生じます。

 思うに、集合的無意識のごとく煙のように立ち上ってくるものではないかと、私は考えています。
 大きな災害があった、戦争があった、のような受け入れざるを得ないできごとや、普通の権力者にも受け入れられるような「個性的な人」(=インフルエンサー)の登場した場合などが自然発生的に起こり、意思のない細胞が無数に集まったアメーバのように普通が形成されているのだと思います。

 私はここに、希望的な観測をしています。
「普通」は影響を受けうるもので、何かしらの働きかけが可能なものだからです。
 この働きかけで、「普通」をみんなにとって生きやすく、誰も取り残さないものに変えていける可能性があると考えています。
 それは、これを読んだ誰かが見つけてくれると願っています…

終わりに

 ここまで読んでいただいてありがとうございました。本文を読んだ方が、変な人であることで日々感じる生きづらさや否定を相対的にとらえ、自らを肯定できるようになることを、心から願っています。

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