「情けは人の為ならず」を資本主義に発展させよう
情けは人の為(ため)ならず
情を人にかけておけば,巡り巡って自分によい報いが来るということ。〔近年,誤って本人の自立のために良くないと理解されることがある〕「大辞林」
ということで、人に良いことをすると、巡り巡って自分に返ってくるという考え方があります。
私自身、この考え方をとても気に入っています。なぜなら、自分と、親切にした相手だけで善意が完結せずに、世界全体へ広がっていく様にはとても魅力を感じるからです。
この考え方を元に発展させた自己流の考え方を利用し、これは善行だろうか?いま私はどうするべきだろうか?と言った問いに自分なりの答えを出しています。個人的に便利ですし、用語をまた他人と共有したいのでまとめてみます。
「情けは人の為ならず」は資本主義に似ている
筆者は経済学を履修したわけではありませんが、基本中の基本的な資本主義は以下のようなものだと考えてることができます。
資本がモノやサービス、労働力と形を変えて社会を循環し、その過程で人々の幸福度が上昇していく。
例えば、私がアルバイトをし、その労働によって賃金が発生し、その賃金で私は酒を買い、酒屋が労働の対価として酒代を受け取り、私は酒を飲んで幸福になりつつ、また酒屋の人もお金を使い...と、様々な形を経て「価値」の概念のようなものがぐるぐる回っていきます。
この例において、そもそも私がアルバイトをできた=体力があった理由は食事をして家で休んで体力があったからであり、その元をただすとそれもまた価値の循環です。
この循環の中で、誰にも扱えない石油をみんなの使いやすい電力に買えたり、誰にもできないことを賃金を対価にやってのけたりして、インプットされた価値に対して多くのアウトプットの価値を出力する人々は「生産者」そしてその行為は「生産」と呼ばれます。
しかし、例えば高額なお皿を手違いで落としてしまった場合や、そもそもアルバイトの賃金で買ったお酒が美味しくない場合なども考えられます。もっと単純に、牛丼と同じカロリーの高級料理に牛丼の数百倍の金額を払って楽しんだ場合も、世の中に残る価値そのものは減ります(大部分は精神的な楽しさとして脳内で楽しまれやがて消えていくので)。これを「消費者」「消費」と呼びます。
このように、世の中の価値の総量は循環する中で増えたり減ったりします。そしてその循環の中で出たロスは、誰のものでもない自然エネルギーを人間の扱える価値に変換する第一次産業によって補われます。
善意の資本主義
長くなりましたが、この構造が善意でも同様に成り立っているのではないかというのが私のアイデアです。
このアイデアでは価値の話よりも単純です。なぜなら、善意は賃金になったりエネルギーになったり酒になったりしないからです。
善意の循環は至極単純に、「誰かが他人に親切にする」「親切にされた人が好い気分になる」「親切にされた人が別の人に親切にする」の繰り返しで循環します。「情けは人の為ならず」です。
この繰り返しによって善意が循環している状態は先ほど述べた資本主義に似ています。
もちろん、貨幣によって厳格に額面が定められる貨幣経済とは異なり、人によって与えたと思っている善意と受けたと思っている善意がずれることは当然考えられるので、どちらかというと物々交換時代に近いものですが、それでも大まかに循環する善意があると思います。
この考え方を採用し、私は人に3種類の分類を考え出しました。
「善意の生産者」つまるところ親切な人です。明らかに自分が受けた以上の善意を人に振りまくことで世の中の善意の総量を上げます。また、人に親切にした際に「お礼はいいから、同じくらい困っている人がいたら助けてあげて」というのもその典型です。ほかに善意の供給源がない以上、この世の善意はすべてこの人々から自然に沸き上がった善意で賄われています。
「善意の仲介者」受けた善意の分だけ親切にする人です。昔ペンを貸してもらったから私も貸してあげよう、この前おごってもらったしおごろう、といった普通の人々です。
「善意の消費者」人から受けた善意を搾取することで得をし続け、他者に返すことはない人たちです。また、本人は気づいていないだけで、明らかに他の人よりも他人から善意を受けているのにそれが当然のことだと思い込んでしまっている人も該当します。
...なんだか自己啓発じみてきましたが、入信させたり買わせたりしないのでご安心ください。
もちろん、受けた善意:与えた善意の比率が1:2なら生産者ですが、1:1.009は生産者なのか、仲介者なのか?1:0.99の場合は消費者になってしまうのか?
などのグラデーションがありますので、あくまでも大まかな三分割です。
というわけで、私は基本的に善意の生産者たろうとがんばっているわけです。そして、善意の消費者には可能な限りそれをやめてもらえると嬉しいな...と思います。
この枠組みで世間の事象を捉えなおしてみると、いろいろと見え方が変わってくると思います。
例えば(遅刻にペナルティがない待ち合わせやサークル活動などでの)遅刻魔の人物。彼は自分が寝たい、楽をしたい、働きたくないと言った自分の利益のために遅刻をします。その分コミュニティの人たちに穴埋めをしてもらっているわけで、これは善意を消費して楽をしているわけです。
もっと複雑な例だと、最近問題になっている転売ヤーという人々です。これを経済や法律ではなく善意の資本主義で捉えてみると以下のようになります。
「人々が一線を越えずに不用品を売ったり買ったりしてお互い便利な社会を作っていたのに、その人々の善意で成立したフリーマーケット市場を転売行為に利用し、市場そのものを破壊しつつ人々に不当な金額で売りつけることに利用し、私腹を肥やしている。つまり、人々の善意を削り取って消費し、自分の財布にため込んでいる。」
世の中は、意外に厳格なルールではなく人々の善意で成り立っているものが多いのです。それを利用して私腹を肥やす行為はかなり散見されますし、それは善意の消費行為の代表例と言えるでしょう。
ここで、相手が好い気分にならないいわゆる善意の押し付けは善意の生産にはカウントされないというのも面白いポイントです。
余談ですが、私とほぼ同じことを考えている映画を最近知りました。
映画のほうが前出ですが、私もこれを観ないで一人で思いついたんです信じてください。
思っていること
善意の資本主義についての記述と用語説明は済みました。
ここから先は私がさらに発展させた蛇足および自分語りなので、概念や用語をインストールしたい人はここから先は読まなくてもOKです。
この構造を考えたとき、私が思っている問題点があります。
それは、資本主義と同様、格差社会が発生しているのではないか、ということです。
身近な例でいうと、チームやクラス内に、親切でなんでも引き受けてくれる人、いないでしょうか?クラス班長や掃除当番、学生時代の理科実験で面倒なところをやってくれた人...そういった"お人好し"的な人が正当に他人から善意を返されているところを私は見たことがありません。
分かりやすい高校生のカーストで言うと、お人好したちが善意を生産し、そこから得た善意を上位カーストの人々が上位カーストの中だけでぐるぐる循環させている...そういった例は高校生に限らず、大学生になっても、会社でも、あらゆるところで見ることができます。これは、発展途上国の搾取の元先進国が豊かな暮らしをしているのと似ています。
もっと単純に言うと、善意の資本主義は、善意を生産している人と善意を享受する人の乖離が資本主義と同じかそれ以上に著しいのです。
私は善意の生産者は本当に誇り高い人たちだと思っています。実質社会を回す人々ですし、自らが他者に親切にすることを、それ自体を喜びだと感じられることは、人間の素晴らしさだと思いますし、ほとんどの人は善意の仲介者です。そんな中、生産者たるのは至難の業です。
「あの青年は人の幸福を願い、人の不幸を悲しむことのできる人間だ。それがいちばん人間にとってだいじなことなんだからね」
のび太の結婚前夜より
しかし、そんな人々が正当に評価されているかというと、そうではないと思います。人の多くは、善意を向けたい人に向けます。つまり、「人から愛されるのが得意な人間」に善意は集中していくのです。
たまにインターネット上では、とんでもないクズ男が女性を半ば騙しては棄てていく...というような現象が見られますし、昔からモテるクズ男という人種は散見されます。「モテる」を「愛される/大切にされる」、と言い換えるとわかりやすいと思います。愛されるのが苦手な人々が生産した善意が、愛されるのが得意なだけの非生産者に吸収されていく構造です。
さらに単純に言い換えると、人気者以外は得できない構造こそが善意の資本主義なのです。どんなに親切でも、いわゆる「お金のない気持ち悪いおじさん」には善意は回ってきません。(もちろん、人気者でしかも親切な人もいます。人気者が悪なわけではありません。)
というわけで私は、可能な限り、人気者ではない人、明らかに受けた分より人に親切にしている人、自分に親切にしてくれた人に親切にして、善意が生産されると同時に、平等に分配されるように活動しています。
「みんなで使っている共有スペースの掃除を知らないうちに誰かにやってもらっていた」のように、いつの間にか善意を消費していることは多々あります。直感で思うよりも多くの善意を生産していきたいものです。