哲学が好きな人
賢いということは、
社会的成功の為に優秀な武器となっても、
生きる、というこの自らの生命に関わる問題の為には、
これほど重量のある足枷となるものもなかろう。
と勝手に思っている。
というか、(偏差値的な意味合いではなく)賢い人は誰でも、
「賢いということは不幸なことだ。」
という茫洋とした実感を抱いているのではないか、と思っている。
より厳密に言えば、
こうした実感を現在している
こうした実感が潜在している
また、或いはすでに超克している
のではないだろうか。
そして、こうした得体の知れない実感が為に、
行く末の一向に視えない不安、
幾ら足掻こうとも一向に泥濘から足の抜けぬような憔悴
に苛まれる。
ひたすらに曖昧なる憂愁。
そこに射し込む光こそ、哲学なのではないだろうか?
誰からも決して理解されぬ
「賢い=不幸なこと」という懊悩を哲学は救う。
理性に崇高な地位を与えることによって。
それも徹底した論理を用いて。
歴史の権威を借りた哲学理論は、時として人の欲求を完璧に満たす。
故、哲学の好きな人は、
自らの救いをそのうちに求めるのではなかろうか。
きっと、それは哲学にしか救い得ぬのである。
うーん。また、自分でも悉く納得出来ぬようなものを感覚的に書いてしまった。
多分、そんなことないよなぁ。
でも、分かる人には分かるんじゃないかなぁ。
そんなことないかなぁ。
【日日是考日 2020/11/13 #031 】
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