「愛」は日本人を破滅させる
【日日是考日 2020/10/26 #014 】
「愛」というのは、キリスト教の理念だ。
「己の欲するところ、人に施すべし。」が、
キリスト教の根幹を成す「無償の愛」が意味するところである。
自分がして欲しいと思うようなことを人に施そうという理念からは、
積極的に自ら人に働きかけることを良しとする道徳観の文化が形成され、
能動的に距離感を縮めようとする人間関係を作ろうとする。
一方、日本人の道徳観は、
我々が幼い頃から「自分がされて嫌なことは、人にしちゃダメ。」と教えられてきたように、
「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ。」である。
これは、適度に距離を保つ人間関係を要求する道徳観であり、
自ら積極的に人に働きかけることをあまり良しとしない、
キリスト教文化のそれとは対極的な人と人との在り方である。
まさに「親しき仲にも礼儀あり。」
が日本人にとって心地よい距離感なのであり、
日本人が人間関係をうまく持続させるコツなのだろう。
では、日本人にとって元来「愛」とはいかなるものであったかというと、
「愛し」を「かなし」と読んだように、
自らの主観的心の有りようを示し、
何かしらの対象から受け、心の動く様を表現する。
つまり、対象に自らの心が惹かれれば、愛おしい、というニュアンスが成立し、
対象に同情を感じれば、可愛そう、というニュアンスが成立するのである。
これは「対象→自分」という時系列で発生する感情であり、
キリスト教の「無償の愛」の「自分→相手」という流れには、やはり逆行するものである。
また、「可愛い」と言葉の対象、
すなわち「愛す可(べ)し」「愛すことができる(可能な)」対象とは、
動物であったり、顔貌の整った人であったり、
自ら彼等を幸せに導こうと積極的に働きかけるべきような対象ではなく、
寧ろ、対象が自らを幸福にしてくれるような存在である。
さて、それでは今現在の「愛」の意味は、
日本元来的な「愛」と
キリスト教文化的「愛(=LOVE)」
の中間点を指示しているかのように窺える。
すなわち、相対する方向に働く二つの愛が重複する中で、
「愛とは何か?」を見失っているのが、
現在の日本ではなかろうか?
尤も、多様な価値観を止揚するのが和の精神なのであるが、
それでもしかし、「愛=LOVE」が為す人間関係は、
日本人には居心地悪く、乖離する方向に流れていくのではないかと危惧する。
それが、友人関係等ならまだいいが、
夫婦関係となってくると、
「愛=LOVE」を追求した結果、関係が破綻したとなれば、
人生を左右するとような大事態である。
それこそ、適度に距離を保つことが円満の秘訣と言われる所以なのかもしれない。
さらには、恋愛結婚が一般的となって、
結婚が「愛=LOVE」の関係の延長にあるように捉えられていることが、
離婚率、未婚率の上昇に関わっているということは十分にあり得る。
互いに尽く合う関係が破綻して離婚、
パーソナルスペースを干渉されることを不安視しての未婚という流れである。
「愛」という言葉は、それだけでドラマティックなので、
あらゆるドラマ、映画等のストーリーに盛り込まれ、
あちらこちらで耳にする。
それらが世間の「愛」の概念を形成する大きな役割を担っている。
日本の将来を守る為にも、
小津安二郎監督や大島渚監督のような、
日本人的「愛」の見せ方、メディアにはもっとして欲しいものである。