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執筆は最高の思考整理で自分を見直す機会だ
冬の寒い風をこれでもかと浴びながら帰る時、僕の心はいつも暖かい。
風に容赦なく体温が奪われて、速攻で手先や耳たぶが冷えていく。真っ赤に染まっている。
でも、僕はその事実に気が付かないほど、心が燃え上がっている。
グツグツのアツアツで、今にも吹きこぼれそうだ。
会社から解放されたばかりの僕にとって、これは当たり前だ。
当然だ、今からnoteを執筆できるんだから。
それくらい、最近の僕はnoteを楽しんで書く事が出来ていた。
それは、誰かが応援してくれているからか?
勿論、それもあるだろう。応援してくれることには素直に感謝したい。
それだけで継続できる人もいると思うが、僕は強欲なんだ。
それだけでは、満足できないし自分の中で続けられない。
確実に「書く」ということに楽しさや面白さを見出している。
では、僕は何が楽しくて、うれしいのだろうか。
自己表現の場を得て、水を得た魚のように燥いでいるのか?
なるほど、的を射ていると自分でも納得した。
確かに表現の場所をゲット出来て、常に凪いでいる僕心が沸騰しているのかもしれない。沸騰しすぎて、最近は干上がらないかひやひやモノだ。
人間の熱というのは、本当にすごいモノだと思う。
リアルタイムで執筆している今だって、一瞬も手が止まらないんだ。
不思議だろ?こうして自己表現で執筆していることが楽しくてたまらない。
ついさっきまで真っ赤に染まっていた手を、「サブサブ」といいながら温めて。着替えなんてそこそこに、僕はパソコンを広げている。立ち上がったパソコンで、直ぐにメモ帳を起動して箇条書きを始めた。
最近のパソコンは起動時間が短くていいよね。昔のパソコンだと、数分かかることがあるし、低スペック過ぎるパソコンだと、今でも一分くらい起動に時間が必要になる。待つことが、少しだけストレスに感じる時がある。
いやあ、贅沢になったものだと思う。
その数分で何かできるとも分からない癖に「ストレス」なんて言葉を使って。いつから僕は、こんなにも短気で情けないやつになったんだ。
まったく、心の機敏という化け物は恐ろしいな。
燃え上がった心を落ち着かせることは、僕にはできそうもないぞ。
パソコンの立ちあがる速度が速いことには、一つだけ弊害がある。それは、部屋の温度を高める装置の電源を入れている時間がない事だ。
結局、まだ温度も上がらない室内で、毛布を頭からかぶって、座卓で一人執筆している。阿保だなって思うけど、デスクトップ画面が立ち上がったら僕はそこにかじりついている。
時にはご飯を食べるのを忘れて、水を飲むことすら忘れて執筆している。
それくらい、僕にはこの執筆という行為が楽しいのだ。
自己表現ができること=執筆であるが、それはあくまで手段だ。
手段が好き、という話をこれまでしてしまったことに今、きがついた。
正直、自己表現の舞台はどこでもいいと思うんだ。
でも、その最中に得られるものが全然違う。
僕の場合は「自分」を知る機会になっている。
正しくは、思考を整理して、意識的に切り替えることに成功している。
文章をだらだらと書いても仕方ないとは、多くの人が言う。
僕もそう思うけど、時にはダラダラと書き続けることが重要だ。
だってエッセイを書いているような人間だ、ダラダラと日常を見つめて思考を煮詰めているのだから。煮詰まって煮詰まって、その先で「今日はこんなことを考えたなぁ」と思いながら、会社という監獄を飛び出すんだ。
僕が帰路で心を燃やしているのは、きっと「その熱を忘れない為」だろう。
その熱というのは、わかりやすい。熱中して考えている、今だ。
思考が整理されて、綺麗にわかった時。
丁度今この記事を書いているようなときは、特に僕はハイテンションだ。
指が勝手に動き続けるんだから、楽しくて仕方ない。
この時、僕は「整理した思考をかきだしている」感覚に近い。
まぁ、最もメモ帳に箇条書きで書き出しているので、書きながら整理しているんだろう。
でも、いつも心の中がマグマのように暖かいかといえば、そうではない。
有料記事でエッセイを書かないときは、僕はあまり楽しくない。
楽しくないというか、「燃え上がった心を必死に理性で押しとどめる」作業をしている状態だ。
感情的に、でも理性的で論理的に。そうなるように、頑張っている。
それは、書きながら何かを探しているからだ。
迷子になっている時、少し心は焦るし、焦った心では冷静な思考を維持できないことも、自覚している。そして、探しているゴールを見つけても、決して全力疾走をしてはいけない。
気を抜いた瞬間、探していたゴールが消え去るからだ。
時に、負のループにハマることもあるが、僕にとっては面白い事だ。
それは、本気で書いているからこそ、絶対に有益にと思うからこそ。
無駄に肩ひじ張って、ちょっと疲れながら疲労感を引きづって執筆している自覚がある。
思考も固まるし、心の熱を抑えるのに思考は引き裂かれそうになる。
それはそれで、面白い。でも、本当に疲れてしまう。
こうした「書きながら探す」という作業も悪くないと思うが、それは本当に疲れる仕事だ。それは、うれしいようで悲しいと思う。
今この記事は、パッとできるのに、疲れる時はじっくりとゆっくりとだからだ。じっくりゆっくり考えることは、その時の思考や感情を描写してもダメだし、考えていることに「正しいか?」という確認を怠ってはならない。
そう思うから、難しいのだろうか。
ただ、どの執筆も自分を見直す機会であることには、間違いない。
本来はどちらでもいいはずで、「心の熱」は同様に燃え上がっている。
僕は、こうして楽な方に逃げているのだろうか。
いや、今は「探す」というフェーズが必要ないだけだ。
この記事を執筆するよりも前に、僕は「探す」という時間が終わっているのだから。
「ふぅ」
ここまで書いて、僕はようやく一息ついた。
いやいや、難しいよね、書く事って。
はぁ、今日も手先が真っ赤で痛いなぁ。
いやいや、それ以前にご飯食べてないや。
こうなるから、心の熱が熱すぎるのはよくないね。
なんでも適温というモノが、あるんだよ?
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