インターネット断ちについて
インターネットを断つことで気づいたことがいくつかある。自分がインターネット中毒者であること、考える時間と力が減っていたことの二つ。
インターネット断ちをしようとし背景として、朝目が覚めてから常に携帯やパソコンで動画を見ていること、そしてその時間何も考えていないことに恐ろしさを感じたからだ。
実際、今日一日インターネットを利用しないと頭で決め、いざ席を立つと片手にスマホが握られていたことや本を読んでいる視界の隅にパソコンやスマホが目に入り、つい手を伸ばしてしまうことが何度かあった。
もちろんインターネットを使わないということは「SNSを利用しない」という当然のことだけでなく、天気予報から音楽アプリの利用すら利用しないこと。
料理をしているときや本を読むときに音楽をいつも流していた手前、普通に過ごしている中に違和感が拭えなかった。
つい隙間時間に手を伸ばしてしまいそうになるたびに、「インターネット中毒者」だったことを自覚し、日常生活にどれだけインターネットが入り込んでいたのかに驚きをそのたびに感じた。
そうやってインターネットに触れないことを前提に一日を組み立てると恐ろしいほど何もできない。映画を見るためのHuluは使えない。音楽を聴きたいと思ってもSpotifyも使えない。
できることといえば、本を読むこと散歩をすること。本当にこれしか頭に浮かばなかった。今日の天気は雨で外に出る気は起きず、残った選択肢である本を読むことにした。
実際にはいろんなことができるのだろうが、いざ実践してみると本当に何も浮かばない。
できる選択肢が浮かばないから消去法も使う出番はなかった。
そして手に取った本といえば「人工知能 人類最悪にして最後の発明」という人工知能に関わる学者から実業家や政治にかかわる人物たちの見解が記されている。
この本はブックオフに売りに出されていることもあるので気が向いたらぜひ手に取ってほしい。
2013年に出版された本だが、2022年に生きる私にとっても新鮮な内容で溢れていた。
本を読んで時間を「潰す」ことにも飽きは来る。いつもなら動画が更新されていないか、SNSに目新しい投稿がされているかなど自然な動作で移るが、今回の私は面白いことに「何もしなかった」。
ただ立ったり、ヨガマットを敷いて柔軟をしていた。
このとき非常に脳がクリアだった。
何もしていないけど、意識は「ここ」にあることをはっきりと自覚していた。
インターネットに意識を向けていた時は、同じように何もしていなかったといえるが、その時、意識は完全にインターネットの中にあって「ここ」にはなかった。
だから、脳みそが呼吸をしているかのような錯覚すら覚えた。まるで脳みそから錆がはげれ落ちるようだった。
インターネットから離れる時間が伸びれば伸びるほど、時間を感じる感覚が戻ってきていた。そして意識が外側ではなく内側に向き始め、自然と物事について考えるようになった。
今までも意識を内側に向け考える機会はあったが、その時は水中に息継ぎ無しで宝を探すような感覚だった。それがこの時は息継ぎをしながら探せているようで不思議なものだった。
これから先も一日の中、決まった時間にインターネット断ちをすると思う。
それか週一日すべての時間を。
それほどこの体験は驚くものだったし、貴重なものだった。
似た体験は誰でもできると思う。
無意識に隙間時間を埋めているのは何かを探してみたりすれば。それは音楽だったり、動画だったり。できれば5分程度ではなく30分ぐらい。
もし試した人がいれば、どんな感覚だったかを一言でも教えてもらえれば、感覚の違いを知れてうれしい。
※この記事は以前のアカウントで投稿したものを転記しています。