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女性の美しさについて

女性は美しい。それは事実だと思う。

同時に残酷だと思う。

女性の美しさはすでに差をつけられるものではなくなった。

もし、美しくない人がいれば、それは女性ではなく、また別の存在として認識されないだろう。

美しいことはステータスではなく、女性の要素に昇華されてしまった。

「日本人」を例にすると、日本人の親を持ち、日本文化を内在化させているが日本語が話せなかったら、その人は日本人なのかと疑問を持つだろう。

要は、この場合日本人とはこの三つを持つ存在としてされている。(あくまで例だが)

女性についても同じだと個人的に思う。

女性の要素として様々なものがあると思うが、今ではその中に新たに「美しい」という要素が組み込まれたと感じる。

これにはいくつか考えられることがある。

それは「皆美しくなってしまった」ということだ。

つまり、皆美しくなったことで比較対象が消え、美しいというのが標準となってはいないだろうか。

スーパーの青果コーナーの野菜が均一な形の野菜や果物が並んでいるように。

なぜ美しくなったのかはわからない。なぜなら、私は女性と話す度胸が無いため、秘訣を聞けないからだ。

今では都心から離れても、年齢が離れても、皆美しくなっていると感じる。

私が残酷だと思うのは、美しさがステータスとならないということ。

そして女性のハードルが高まっているということだ。

美しさがステータスとならないのであれば、彼女たちは何をステータスとすればよいのだろうか。

服装か資産かブランドか、男の私ではうまく想像できない。

男の私が今女性になったら、とても生きづらいと思う。

皆美しく、誰を見ても自分の上位存在として映り、生得的な差を憎むだろう。

自分のアイデンティティを疑い、パラノイアにも確実に陥ると思う。

それほど、美しくない自分に自信が持てなくなるだろう。

そんな自分にとって、まず「女性」になることが最優先であり、そのためなら私財をふんだんに使う。

そうして美しくなったらやっとステータスを身に着けようとする。

やはり、この事態を「残酷」だと、そう表現するしか言葉が見つからない。

きっと女性から見れば、男の要素も更新されていると思うが、一般男性の要素と比較するのが恐ろしいので、やっぱり知らないふりをしよう。


もしかしたら、そんな盲目的であると逃避している私は幸せかもしれない。

※この記事は以前のアカウントで投稿したものを転記しています。

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