それって本当に無駄なの?
一見無駄なことが、実は自分の役に立っていることがよくある。
老師の言葉で「無用の用」という言葉があるし。
だから、役に立つものばかり求めるのは弊害だと思う。
例えば、こうやって文章を書いている。
この文章を読んでも、ほとんどの人の役には立たないだろう。
本来文章とは、誰かに読んでもらうために書くものであるし、
誰かに伝えたいから書くものである。
昔もこんなふうに記事を書いていたのだけれど、
「いや、これ読んでも誰の役にも立たないだろう」
と思って書くのをやめてしまった。
しかし、実際やめてみてわかったことは、
決してそんなことはなかったのである。
確かに僕がこうやって文章を書いてもほとんどの人には役に立たない。
しかし、僕の中では、
・思考を整理したり、
・脳内回路を書き換えたり、
・学んだことが繋がってより深まったり
など、意外と役に立っていたのである。
そしてもしかしたら、読んでくれた人の役に立っていたらいいなとも思っている。
淡い期待ではあるが。
関西の人は笑いというものを大事にする。
これは以前僕の上司が言っていたのだけれど、
例えば、会社内のミーティングとかであっても笑いを入れていく。
そうすることによって、その場の空気が緩み、みんなの表情も崩れ、ミーティングが盛り上がる。
そうすることによって、
ミーティングが円滑に進み、社員のモチベーションが上がったり、関係性が近くなったり、新しいアイディアが生まれたりするそう。
笑いって一見無駄に思えるものが、実際は現実をより良くするためのものになっているのだ。
僕は笑いで傷つくことも多々あるので、100%そうは思えていないが、
まぁ、そういう側面もあるのだろう。
他にも信仰心とかもそうだと思う。
「神様を信じる」って一見すると、意味のないことのように思える。
力や才能のある人は、現実的なスキルを磨いたり、仕事バリバリでやっていける。
それは本当にすごいこと。
そうじゃない人がそんなすごい人たちと肩を並べてやっていくためには、
どうしたらいいのか?
そういう時に役立つのが信仰心だったりする。
苦手なことや困難な状況が多いからこそ、
神様に「力を貸してください」と祈ってみる。
すると、力が沸いてきたりする。
そうやって乗り越えていけたら、それでいいじゃないか。
もちろん、それが逃げるための手段になっていたら意味はないが、「ほどほど」ならいいだろう。
一見無駄と思えるものが、実は役に立っているということがたくさんある。
それを踏まえた上で自分の生活を見直してみると、何かしらヒントが見つかるかもしれない。