パナマ文書報道に学ぶ新聞の姿勢
▼2016年5月9日付毎日に、南ドイツ新聞の二人の記者へのインタビューが載っていた。パナマ文書報道のきっかけとなった二人である。生命の危険を回避するためもあり、「ICIJに加盟する約80カ国、約400人の記者が関係者への裏付け取材にかかわ」った。一斉報道まで情報が少しも漏れなかったことは「奇跡」だという。そう思う。
〈同紙は捜査当局への情報提供は拒否している。バスティアン記者は「我々は捜査機関の手先ではない。情報提供者を守る観点から、文書の提供は行わない」と強調する。2・6テラバイトという巨大な文書には未解析な部分も多く、どこで提供者に結びつく情報が発見されるか分からないためだ。
ドイツでは昨年末にケルンで移民系による集団暴行事件が起きるまで、移民・難民に批判的な報道を自粛したとして、保守層を中心にメディア批判が強まっていた。だが、今回のスクープは調査報道の力や新聞報道の意義を示すものとして高い評価を得ている。
パナマ文書の取材に専念するため1年以上の時間を与えられたフレデリック記者。「世の中には、読みやすい記事で説明できることだけが起きているわけではない。我々記者は、重要で中身がある記事を読みたいという読者に対し、責任を負っているのです」と話した。〉
▼政府との関係についても、調査報道の価値についても、二人の記者が示した姿勢は当たり前のことだと思う。ただし、ドイツのジャーナリズムの常識が、日本社会のジャーナリズムの常識とは限らない。もしも日本のどこかの新聞が、正面から総理大臣や政権、経団連や官僚と対決する報道に踏み切った場合、問われるのは日本独自のジャーナリズムの仕組みだろうか、それとも日本社会の思想だろうか。
こうした問題は仮定で推測しても生産的ではなく、具体的な文脈で考えるしかない。だから、日頃の報道と辛抱づよく付き合い続けることが肝要だ。
(2016年5月9日 更新)