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日本社会は「新型インフル」の教訓をまったく生かせていない件
▼すぐれた記事、重要な記事を書いたとする。しかし、その後の社会状況をみれば、まったく意味がなかった、と思ってしまうことがある。
それでも、その記事を出したから、少しは被害が減ったのだ、と思いたい。そういう種類の記事もある。
▼今から4カ月前、2020年2月14日付の朝日新聞夕刊1面。
〈学校に中傷 「冷静でいて」〉
という見出しの記事だ。
▼この夕刊が出る前日、日本で初めてコロナ感染による死者が確認されている。その人は中国の武漢への渡航歴がなかった。
たった4カ月前だが、はるか昔の出来事だと感じる。
〈2009年、「新型インフルエンザ」の登場に日本列島は騒然となった。あれから11年。新型コロナウイルスの感染確認が国内でも相次ぐ中、かつて新型ウイルスに向き合った関係者たちに、体験や教訓を語ってもらった。〉
▼この記事は、圧倒的大多数の人が忘れている話に光を当てる。長富由希子記者。
〈関西大倉中高(大阪府茨木市)は生徒・教員約100人が新型インフルエンザに感染。約2週間の一斉休校を余儀なくされ、心ない中傷に苦しんだ。
当時、中学校の教科担当として対応にあたった古川英明校長は、新型肺炎の拡大について「冷静でいることが一番大事だと思う。感染した人を排斥するような発信自体が問題だと自覚して欲しい」と話す。〉
▼この記事を読んで、なんとも陳腐(ちんぷ)な感想しかなかった。要するに、「ほんとうにひどい話だ」と思う。
「感染した人を排斥するような発信自体が問題だと自覚して欲しい」という一言は、SNSの「恩恵」で、問題だらけの発信ばかりする人が増えた今こそ、重みがある。
〈2009年5月中旬以降、約1900人の生徒の一部で感染が発覚。その後、全国的に感染者は増加したが、当時は国内感染者はまだ珍しく、学校にはこんな電話が相次いだ。「茨木から出て行け。迷惑をかけているのがわからないのか」「生徒を外に出すな」
古川校長は「学校名をタクシーの行き先で告げると、乗車拒否された職員も出た」と振り返る。生徒は制服のクリーニングの受け取りを拒否され、スクールバスはガソリンの給油を断られたという。〉
▼むちゃくちゃな難癖(なんくせ)であり、口にすればするほど脳が劣化しそうな言葉である。関西大倉の感染者は100人だった。
〈大部分の生徒は感染しなかったが、「関西大倉の生徒というだけで感染源扱いされる」といった悲鳴が生徒らから上がった。
(中略)「制服を着ていると攻撃されそうで怖い」と心配する保護者もいたため、私服登校を当面許可。カウンセラーの増員など、生徒の心のケアにも気を配った。〉
▼社会の無惨(むざん)な心が、差別する人々の人でなしの所業が、恥ずかしい振る舞いが、むき出しになった出来事だった。11年前にも、極端なゼロリスク原理主義者たちが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)していたことがよくわかる。
▼この「関西大倉」に、さまざまな別の言葉を代入して、そのまま通用するような事態が、2020年に頻発(ひんぱつ)しているわけだ。
▼さて、11年前と比べて、日本社会はまったく成長していない、と言うべきか、いや、SNSという代物(しろもの)が普及したから、単純に比べられない、と考えるべきか。
前者の言い方もできるし、後者の言い方もできる。筆者は、より価値的なほうを考えたいので、後者のほうで、少し考えてみる。
▼名著『うわさとは何か』を書いた松田美佐氏の論考が、「中央公論」の2020年5月号に載っていたので、この論考をもとに考える。
『うわさとは何か』の感想についてはこちら。筆者のメモを継続して読んでいる人で、未読の人には、ぜひともオススメの一冊である。
(2020年6月18日)