栗原心愛さんの死(11) DVの被害者に落ち度はない件
■DVとは「力による支配」
▼新聞で読めるDV論の白眉(はくび)ともいえる記事が、2019年3月15日付の朝日新聞に載った。NPO団体「アウェア」代表の山口のり子氏のインタビューだ。(聞き手=杉原里美記者)
〈DV減らすには〉
〈親密な関係の中で 洗脳して思考奪う 「力による支配」〉
〈社会全体の問題 加害者対策を 本気で考えよう〉
▼上記の二番目の見出しは、そのままDVの定義になっている。DVは「誰にでも起こりうること」だが、「親密な関係の中でしか起きない」。だから外からはわからない場合がある。
「DVは『力による支配』です。自分の思い通りに動かすことが目的なので、暴力をふるったり怒鳴ったりすることは手段に過ぎません。あらゆる種類の力の中からその都度、ベストな方法を選択し、繰り返し使うのです。そして『支配する人』と『支配される人』の関係をつくり出します」
▼そして、ここからがこの記事の白眉なのだが、「被害者側にも落度(おちど)がある」という人がいる、という質問に対する山口氏の答え。
「いいえ。加害者は、暴力をふるうきっかけをいつも探しています。だから被害者は避けようがありません。『お前が暴力をふるわせている』というのも、加害者の決まり文句です。しかし被害者は自分を責め、『私の努力が足りなかった』と思いがちです」
別の個所では、「DVは、被害者の自信や自尊心を奪います。被害者は、ただ加害者の言いなりになって、うずくまっている状態です。『なぜ逃げなかったの?』と言われますが、逃げられないのがDVなのです。加害者に依存するように仕向けられているため、離れるとどうしていいか分からず、結局、戻ってしまうこともよくあります」とも。
■「逃げられない」のがDV
▼日本社会に蔓延(まんえん)している、愚劣な「被害者も悪い」論、無責任な「被害者にも落度がある」論を、完全否定しているこの言葉は、とても重要だ。
この言葉を、「いじめ」を念頭に置いて読んでみると、多くが「いじめ」にもあてはまることがわかる。前段を、もう一度引用しておく。
「いいえ。加害者は、暴力をふるうきっかけをいつも探しています。だから被害者は避けようがありません。『お前が暴力をふるわせている』というのも、加害者の決まり文句です。しかし被害者は自分を責め、『私の努力が足りなかった』と思いがちです」
▼「逃げられないのがDV」ーーこの観点を持っていると、栗原心愛(みあ)さんを死に追いやった父親、そして父親のDVを受けていた母親の状況に、「ひどい親だ。罰せよ!」という単純な感情とは別の光を当てることができる。
「断定はできませんが、彼女も追い込まれ、自分の身を守るために感情さえ持たないようになっていた可能性があると思います。自分の考えを何も持たず、加害者の言われるがままになるのは、被害者の究極のサバイバル術といえます。単純に『夫婦2人でやったこと』とみるのは、DVのことが分かっていない見方です」
▼胸が傷むこの言葉を読み、この言葉に詰まっている知恵に触れた後で考えてみると、たしかに検察は、もしも夫婦間のDVのことが分かっていなくても、夫婦二人とも立件できるわけだ。
▼DV被害者が追い込まれる、想像を絶する心理状態については、以前メモした。
今回の虐待死に関するメモが増えてきたので、マガジンとしてまとめておいた。興味のある方はご参考に。
■加害者がよく使う論理
▼山口のり子氏は、DVの加害者は「卑劣で巧みな論法と話術で会話を牛耳り、わけがわからないうちに『自分が悪いからだ』と相手に思わせます。相手を洗脳して、思考を乗っ取る手口です」と分析する。
では、どういう人がDVの加害者になるのだろうか。
「『自分が正しいことを証明するためには大声を出し、相手を黙らせるに限る』『妻をコントロールする責任が私にはある』『殴られても僕についてくる彼女のピュアさを大事にしたい』。アウェアに来る加害者は、こんなことを言います。ゆがんだ価値観を身につけてしまった人たちです」
「あれ、そういえばあいつ、似たようなことを言ってたな」と思い当たる人、この文章を読んでいる人のなかにも、もしかしたらいるかもしれない。
▼その加害の傾向性に、最近変化が見えるという。
「殴ったり、けがをさせたりすると警察に逮捕されるので、身体的暴力をふるってアウェアに来る加害者は少なくなっています。その代わり、心理的に相手を追い詰める加害者が増えています。相手を自分の所有物だと思っているので、被害者が離れようとすると、SNSを利用して、共通の友人を自分の味方につけようとしたり、相手の悪口を流したりします。中にはリベンジポルノをばらまいたり、GPSを使って追跡したりする人もいます。すべて人権侵害であり犯罪です」
■筆者の経験から考える
▼個人的に、身近な話として最も気になったのは、以下のくだりだ。
〈ーーつきあう前に、相手がDV加害者かどうか気づけませんか。
「加害者は支配しやすい相手を見つけると、急激に近づく傾向があります。短期間にぐいぐい来て、すぐに親密になろうとする人は要注意です。前の交際相手を見下していたり、女性らしさにこだわっていたりする人も危ない。ただ相手をものにするために最初は優しくしたりするので、見極めるのは簡単なことではありません」〉
やはり見極めるのは相当難しそうだ。「すぐ親密になろうとする人は要注意」というのはわかるが、その局面になった場合、なかなか気づけないものだろう。しかし、こういう情報に一度触れているかどうかで、脱出できる可能性は変わるに違いない。
▼さらに厄介なのは、「女性がDVの加害者で、男性が被害者」の場合も、数は少ないが実在するという点だ。
上記の記事の場合は、「男性が加害者、女性が被害者」という前提での話で、「女性らしさにこだわっていたりする人も危ない」という条件設定になっているのだろう。
加害者が男でも女でも、DVの構造はまったく変わらないので、男性もひどい暴力の被害を被(こうむ)る。筆者の友人のなかに、まさに妻から継続的なDV被害に遭った男性がいるので、身につまされる。
▼彼の場合は、なんとか離れることができた。しかし、DVには上記のような「構造」「法則性」「常套手段」があるのだということを、筆者が専門家の助けも借りながら、彼に繰り返し話して、やっと納得してくれて、加害者から離れることができた。
「命拾いした」という言葉が大げさに感じられない状況だった。DVの関係は、一度はまってしまうと、そこから抜け出すのは至難の業だといっても言い過ぎではない。これが筆者の実感である。
■社会の論理は「力と支配」ではない
▼山口のり子氏は、今後の対策として「法律を作り、加害者対策をきちんとすること」をまず挙げる。「被害者が一生逃げ続けるのは理不尽です。逃げきれたとしても、加害者は次のターゲットを見つけるだけでしょう」。
「子どもたちが早い時期に、『力と支配』の価値観は間違っているということを学ぶ教育も重要です」という。まったくおっしゃる通りだと思う。当の学校や教室が「力と支配」の価値観に支配されている場合もある。
家族が、会社が、と考えていくと、まさに暴力は「社会が生み出している」というのが正確な問題認識だ。
たとえ、国家は「力と支配」の価値観によって運営されている、としても(ここでも政治思想の様々な議論が生まれる)、「国家の論理」と「社会の論理」とは異なる、という教育が重要だ。ここの分別がなくなると、その社会は弱くなる。すると、結果的に、その国家も弱くなる。得をする人は誰もいなくなる。
▼DVをめぐるすべての議論の土台に、「DVの被害者に落ち度はない」という真理を据えなければならない。少なくとも、「笑いをとれるか、とれないか」「受けるか、受けないか」を基準に発言する芸能人や芸人たちが、テレビ番組でこうした問題に専門家きどりでコメントを重ねて恥じない日本社会の現状は、百害あって一利なしと言わざるを得ない。
(2019年3月23日)