「歴史観」を考える 「戊辰150年」

▼少し前に〈「明治150年」と「戊辰(ぼしん)150年」を読む〉を書いたが、2018年=「戊辰150年」のあれこれを簡潔にまとめてくれていた文章があった。星亮一氏の『斗南藩』(中公新書)のあとがき。先に書いたように、同じ日本という国の中で、まったく異なる歴史観が併存していることがよくわかる。

〈2018年の明治150年にあたっては鹿児島、山口、佐賀、高知の四県は多彩なイベントをスタートさせた。そもそも明治維新150年の行事は安倍総理の呼びかけで、平成の薩長土肥連盟が誕生したことに始まる。安倍総理は日本の近代化に薩摩、長州、土佐、佐賀の四藩が大きく貢献したとして、鹿児島、山口、高知、佐賀の四県知事に積極的な顕彰を求めた。

 これに対して、薩長土肥と戊辰戦争で戦った越後や奥州の人々には、明治維新というよりは戊辰戦争150年というとらえ方をする人が圧倒的に多い。ことに戊辰戦争で最大の攻防戦を演じた会津の人々にとっては、明治維新ではなく戊辰戦争150年である。/攻め込んだ明治新政府軍はいたるところで略奪暴行を繰り広げ、「敵は官軍にあらず、姦賊である」と会津の猛将佐川官兵衛は恭順を拒んだ。そのしこりは今日もなお強く残っており、薩長土肥と同じテーブルで、論じ合うことを拒む気風も存在する。

 それに拍車をかけたのが、斗南藩への移封だった。生活もおぼつかない旧南部藩の地に強制移住させられた旧斗南藩の末裔と、薩長土肥の関係者が一堂に会して、明治維新150年を論じることはまずありえないに違いない。明治維新150年で、双方が和解すると考えるほど歴史認識は甘くはない。/ここで明確になったことは、意識の上で日本列島が東西二つで分断されていることである。明治維新150年にせよ戊辰戦争150年にせよ、列島分断の行事が進行している。政治家たちはこの問題に関してあまりにも鈍感である。明治新政府の東北蔑視策が歴然としているにもかかわらず、それも訂正する動きがない。

 会津藩を抱える福島県では、『福島民報』『福島民友新聞』ともに特集を組み、連日、戊辰戦争に関するニュースを提供している。/『福島民報』は山口、鹿児島、高知などに記者を派遣、勝者とされるこれらの地域の歴史関係者の史観を紹介、東西融和の接点を模索した。/『福島民友新聞』は、「維新再考」と題し、薩長史観ではなく新たな視点で明治維新に迫り、各界の有識者を登壇させ、大型連載を進めている。……会津には「長州と仲良くはするが、仲直りはしない」という格言があり、本格的な融和は極めて困難であろう。/会津人は藩主松平容保が京都守護職時代、テロ行動を繰り返し、京都を騒乱に陥れた長州藩に対し、強い敵意を抱いており、加えて鳥羽伏見戦争後、恭順の意を表したにもかかわらず、松平容保の斬首を要求して、会津に攻め込んだ長州の木戸孝允、薩摩の西郷隆盛らは断じて許し難いと強く叫んできた。〉(223-225頁)

▼福島民報も、福島民友新聞も、読み応えのある記事を連載している。たとえば福島民報の「戊辰150年」は、じつに細かく「戊辰」の軌跡とその後を追っている。12月1日付は「第3章~信義貫いて~」「長岡・奥会津編3 地元の思い」。河井継之助について〈家訓を重んじた河井の信念が期せずして郷土を戦火にさらした〉歴史をたどる。

〈新政府による長岡藩への戦後処理も河井への不満につながった。居住する町は、元藩士が多いと「ちょう」、町人が多い地域は「まち」と呼び方を区別。経済的な支援は元藩士側につらく、町民側を優遇するなどしたため、互いに対抗意識が芽生えた。/明治に入り、周辺では町同士が合併し市が相次いで生まれたが、長岡では合併の条件を満たしながらも元藩士と町民の遺恨などを背景に進まなかった。市となるのは1906(明治39)年で、周囲より20年ほど遅れた。/元藩士や子孫は、戦争さえなければ疎まれることはなかったと戦端を開いた河井を憎み、庶民は郷土を焦土と化したのは河井をはじめとする武士たちだと恨んだ。「私が市職員となったばかりの昭和40年代でも出身地によって『侍課長』『町民課長』と冷やかし合う風潮が庁内に残っていた」。(河井継之助記念館の)稲川館長は打ち明けた。〉

▼2、3回マウスをクリックするだけで、たとえば東京一辺倒の歴史観がどれほど偏っているかがわかる時代になった。

(2018年12月3日)

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