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第35回 ブルー・セプテンバー

 さて、金沢での取材を終えた後、何を差し置いても優先的に原稿に取りかかりたいところであったが、いかんせん、相変わらず他のことで手一杯で、なかなか筆は進まなかった。

 何せ、半端ない忙しさであった。まずは、金沢での取材後、ゆっくりと現地滞在することなく、お昼ご飯を食べたらすぐに東京へと戻り、夕方からの拳法道場の練習に参加。これは、当時代表者でもあったので、穴を開けるわけにはいかない、という責任感から来るものであった。
 そして、翌日は、朝から地域のスポーツイベントに参加。
 そのスポーツイベントが終わった後、午後には彼女と合流して、結婚式場の下見へと出かけた。式場の下見、と言っても、彼女の希望はディズニーランドでの挙式だったので、ディズニーランドホテル一択のようなものだった。ついでにホテルミラコスタ(東京ディズニーシー)のほうも下見に行ったが、彼女はすっかりディズニーランドホテルでの挙式で頭がいっぱいだった。自分としても、出来るだけ、その要望に応えたいと思っていた。しかし、ディズニーランドホテルでの挙式は、最低でも700万円と驚くほど高額であるにもかかわらず、かなりの人気で、「現状空いているのは来年の4月になります」という話だった。予約するかどうか迷っていたが、結局、まだ結婚届も出していない状況で、焦って結婚式の日程だけ決めてもしょうがない、と考え、しばらく保留とすることにした。(後日、この判断を後悔することになる)

 結婚式場の下見の二日後には、会社を休んで、彼女と一緒に二人で暮らす物件を探し回った。一日かけて色々な物件を見て回ったが、なかなかしっくり来る所は無かった。

 その翌日には、仙台へ出張に出かけた。一泊二日の旅程で、宿で原稿を書こうと思ってノートパソコンも持ってきていたが、現地の支店長との付き合いで飲みに行ったため、酒が回って一文字も書くことは出来なかった。行き帰りの新幹線でなんとかある程度は書き進めることが出来たくらいだった。

 そんな風にバタバタの日々を過ごす中で、まず、物件が決まった。マンションの一室、3LDKで家賃は月々13万円。日当たりは悪いものの、間取り的には余裕のある造りだったので、私は即決した。ただ、彼女は不満を抱いていたようだが、結婚届を出す予定の日も近付いていたことや、好条件の物件はなかなか見つからない時期でもあったので、そこは強引に押し切ってしまった。

 そして、肝心の原稿であるが、なんとか9月20日には初稿を提出することが出来た。もちろん遅れることはすでに連絡済であったが、当初は8月末予定でいたところ、だいぶ大幅に後ろへずれ込んでのことだった。
 題して『金沢友禅ラプソディ』。果たしてどのような評価を下されるのか、提出した直後からドキドキしていたが、しかし日常の忙しさに追われて、自分が書いた作品のことに思いを馳せているような余裕は無かった。

 原稿を提出した翌日には、自分の両親と、彼女の家族が対面しての食事会を開いた。そこで両家初顔合わせだった。
 その翌日には、所用で四国へと出かけた。二泊三日の長丁場の用事を終えて戻ってきたが、予定はまだまだ詰まっていた。

 四国から戻ってきた次の日、彼女とデートに出かけた。六本木ヒルズで開かれていた「ジャンプ展」に行ったのだ。
 もう結婚届を出す予定の日までカウントダウン、というタイミング。その日は、何の変哲も無く、ジャンプ展を楽しんで解散、になると思っていた。

 ところが、そこでトラブルが発生した。

 ジャンプ展が終わった後、夕食を食べている時のことだった。

 彼女が「結婚する自信が無い」と言い出したのである。

(まさか――これが噂に聞く、マリッジブルーってやつか⁉)

 私は焦った。そんなことを土壇場に言われても、家族にも引き合わせたし、同居するマンションへの引っ越しの日取りも決まっていたし、今さら諸々のことを白紙に戻すことなど出来なかった。
 焦りはしたものの、冷静になろうと努めて、とにかく彼女の話をひたすら聞くようにした。そして、漠然としたキーワード、例えば「自信が無い」という言葉に対しては、「具体的にどういうことに自信が無いの?」と問いかけて、深掘りをしていくようにした。辛抱強く、彼女から本音の部分を引き出そうとしていた。我ながら涙ぐましい努力だったと思うが、そんな簡単に、一度根付いた不安や恐れはそう簡単に消えるものではない。
 その日は、どこかモヤモヤしたものを抱えたまま、お互いそれぞれの家へと戻っていった。

 結婚へ向けての動きに、かすかに暗雲が垂れ込め始めた中、もう一つの日常でもある会社での仕事も上手く回らなくなっていた。
 仙台へ出張した時の仕事内容に不備があり、そこを先輩社員からネチネチと追及されたのである。その先輩社員は、その後も何度か私のことを苦しめてきたから、これから先の話にも登場する予定だ。なので、仮に「ネチ男」と名付けておく。
 ネチ男は、本当に人のプライドを踏みにじるような、いやな言い方をする奴だった。

「おーみさん、あんた、仕事のやり方が間違ってるんとちゃいますかねえ」

 確かに、小説だの拳法だの結婚だの抱えていて、仕事の段取りがちゃんと出来ていなかった面はある。そこは大いに反省すべきだと思った。それにしたって、そんな言い方をしなくても、とは思った。

 だけど、とにかく耐え忍ぶ時期だ、と思っていた。
 もし『金沢友禅ラプソディ』が上手く軌道に乗ってくれれば、今度こそ、小説一本で生きていける目処が立つかもしれない。そうなったら、ネチ男にいびられる日々からもオサラバ出来る。

 とにかく、一番大事なことは、今は何よりも彼女との結婚を無事に終えることだ、と思っていた。もうすぐ予定の日が来る。幸い、4℃に予約していた結婚指輪を取りに行った時、彼女はキラキラと輝くリングを指にはめて、上機嫌な笑顔を見せていた。この分なら、先日のマリッジブルーは気にしなくても大丈夫か、と思っていた。

 やがて、10月に入り、結婚届を出す予定の日を迎えた。

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