602号室の天使の羽をちぎって奪った
書きかけの小説の登場人物たちの生活がわたしの生活と同じようにぐるぐると回っている、わたしが言葉にしなければこのひとたちの生は誰にも伝わらないのだけど、別に誰にも伝わらなくてもわたしの世界のどこかでこのひとたちは懸命に生きていて、幸福になったりすることも知っている(わたしは結末を知っているし、結末の先でも彼らはどうせ美しく生きるから)から、
誰かに知ってもらう必要があるのか、とぼんやり思うことがある。
わたしが誰かにわたしの世界を知ってもらうために、誰かにわたしの世界の言葉の美しさを思い知らせるために、誰かのひかりになるために、彼らの生活を勝手に飾る。
詩や短歌だって100%がわたしでできているわけではないので大して変わりはないのだけれど、詩を書くときにはしゃがみこんだり叫んだりしているどろどろの人間に羽根をはやすような気分なのに、物語を書くときは天使に脊椎を刺すような気分になる。
だれかの生を書くのには覚悟や責任がいるような気がするよ。書くけどね、覚悟があるから。
誰にも見てもらわなくても、誰にも知られなくてもわたしの生が美しいことには変わりがないとずっと思っているし、馬鹿みたいに有名に、何者かにならなくたって幸福であることにも変わりがないこともありがたいことに大人になって少しずつ分かってきたのだけれど(諦観もあるのかもしれなくて、それはそれで悲しい)、
わたしの身体はもう、できるだけ多くのひとに自分の生を知ってもらうことと、できるだけ多くのひとのひかりになること、それからできるだけ多くの人を鋭い鋭い刃で傷つけて、わたしのことを忘れられないようにすることだけを燃料にするようになってしまった。
キリンが首を伸ばしたのと同じことだよって、優しくて博識な彼に言われたい、架空の彼、架空の恋、架空のわたし。
夢の中でもうまくやれないことがあるのって、夢の中でなら何もかもうまくいくのとどっちが幸せだろうなって、いい夢を見た後も悪い夢を見た後も考える、
話してしまいたいことがたくさんあるけどしたい話だけをしていい人は自分以外どこにもいなくて、やっぱり詩を書くしかないのねと思う、
さみしいってことなら、あたし、一番上手に書けるよ。
生活になるし、だからそのうち詩になります。ありがとうございます。