しあわせの定義なんかわかんないけど、一緒にわらおうね
遊びに行った祖母の家でね、とつぜん、祖母が聞くんです。
「今幸せですか」、って。
いきなりどうしたのって、みんな笑ったけど、おんなじくらい多分、みんな考えてて、だってね、手放しでしあわせ!って言うの、難しいでしょう。
すごい幸せだよ、とは言えないねって、幸せな瞬間もそりゃああるけど、あぁもう、ってときだってあるし、健康でね、そんなこと考えられるのも、贅沢な悩みなのかもしんないけど、でも、やっぱりわたし今幸せで、満ち足りているよって、そう笑ったりはできなかった。
歳を重ねるごとに(勝手に増えてってるだけで大人になれてる気はしないんだけど)、ひとと話すごとに、昔のこととか、きょうだいや母と話をするたびに、あぁ、みんな弱くて、不安で、さみしかっただけなのねって、思うようになって。
自分も弱くて、不安で、さみしくて、どうしようもない気持ちのとき、あるから、ぜんぶ捨てちゃおうかなとか、もういっそ、ほんとうにどこまでもふたりになれないなら孤独になってしまおうかなとか、ぼんやり考えたりもするから、愛情、みんな確かめてなきゃ不安になる、不器用なひとだらけで、糸が切れる前のわたし、たぶんそれがわかっていなくって、自分だけが苦しいような気がしていたつまんなくてくだらないやつだったから、怖くてひとを嫌ったりしていたけれど、今はほんの少しだけそういうことに気付けたから、あぁ、ひとって、にんげんって、愛おしい生き物に見える。
詩を書いててね、伝えたいこと、もしかしたらそれがいちばんかもってくらい。
べつに最初からなんも憎んだり恨んだりはきっとしてなかったんだけど、妬んだり羨んだり、そういうのまだやめられなくて、なんかもう、みんなでさ、幸せですかって聞かれたら、しあわせだよって笑えるようになんないかなって、理想論、ひねくれものだけど祈っていたりするのだ、さらに理想を言えば、そのしあわせを構成する一部に、どうにかなれたりしないかなって。
幸せ半分、まぁしょうがないかな、が半分だったら、幸せってことでいいんじゃないって、おばあちゃん言ったけど、わたし、わたしね、まだはんぶんも満たされてるって胸を張って言えなくて、でもそういうの、さみしいとか愛しいとか気付けるようになっただけ、詩のなかだけでも言えるようになっただけ、きっと大人になったのかもしんないし、そんな自分を好きになれるし、やっといまからはじまるのかなぁって、なんとなく思ったよ。
生活になるし、だからそのうち詩になります。ありがとうございます。