いろんなきみが見てみたいなって思ってくれたりしませんか

 
まだここで雑記を書くのに慣れないのは、話し方が定まらないから。
 

散文を書くときと詩を書くとき、Twitterで日常のことをつぶやくとき、思考を140字にしてつぶやくとき、人と話すとき、心の中だけで話をするとき、どれも話し方や口調が全然違うような気がする。
『私』と自分を呼ぶとき、音は同じでも“わたし”のときと“あたし”のときがあるみたいな感覚的なはなしでもあるし、明確に、柔らかい話し方になったりつい強くなってしまったり、別にどれも嘘じゃないし自分じゃないわけでもないのだけれど、ちゃんとその時々でしっくりくる自分を見つけないと、上手にはなしもできないのだ。おなじ自分なのに、他人の身体を借りているみたいな気持ちになって。

相手によって話し方や声が変わったり、話し言葉と書き言葉がちがったり、きっとみんなあることで、液体が容器に沿って形を変えるみたいな、そういうことなんだと思う。
無意識の人も意識的にそうする人もいるだろうし、それはもちろん悪いことじゃなくて、だから自分で文章を書くときも一人称のひらがなやカタカナまでこだわっていたりするんだけど、どうにもこうして雑記やエッセイみたいなものを書こうとするとすべりが悪くて、今まで日記を続けられたことがないってこと、思い出した。
書きたいことも言いたいことも、たぶんないわけじゃないのにね。かっこつけたいのかな。

Twitterはその辺すごく自由に見えて、自分の小さな日常から、乱暴な思考、詩や散文に昇華できたものまで、どこの間をとっても馴染むような気がしてしまうので、ほんとうにいろんな自分が顔を出しているなぁと思う。
穏やかでも激しくても丁寧でも煩雑でも、あそこでは浮いてしまわないし、例えばまるきり空想の世界の中にぽつんと自分の感情を混ぜこんでしまっても違和感のない混沌とした場所だから(その辺は詩に似てる気がする)、好きなのかもしれない。
これはわたしの勝手な感覚で、たぶん、そういう場所だからこそ傷つけるひともいるだろうし、やさしいひとは傷ついたりしているので哀しいなぁとも思うけれど。

自分の気持ちを言葉にするのがたぶん下手くそで、だから詩を書き始めたような気がしたけど、最近、前よりは少し素直に感情を言葉にしたりできるようになったのかなって、良い変化、もちろん大抵はまわりの人の優しさのおかげなんだけど、文章を書くことが練習になっているんだろうなってところもあって、だから書くの、もっと好きになれそう。
誰かに見てもらいたくてこんなところで文章を書いたりしているので、たぶんまだひとりで日記は書かないだろうけど、でもこうして好き勝手に記録することは続けていたいので、慣れるまで色々書いてがんばります。

詩にしたいこと、きみと話したいことと、だれかに書きたいことと、ひみつにしておきたいこと、みんな違うから、そのぶんだけわたしもいたりするから、どれもやめらんないね。



#雑記 #エッセイ

生活になるし、だからそのうち詩になります。ありがとうございます。